CALL

「俺は幸せ者だよ」

 ルルーシュは笑みを浮かべて言った。
 風になびいた黒髪がさらさらとその頬にかかる。鬱陶しそうに払いのける様すら絵になっていて、美しい人間というのはどんなときもどんなことをしていても美しいものなのだと、スザクは思わず感嘆の息が零れそうになった。
 互いのマントの裾がふわりとはためく。

「自分で自分の死に方を決めることができる人間なんて滅多にいない。しかも、もっとも信頼のおける人間の手にかかることができるんだ。こんなに幸せなことがほかにあると思うか?なぁ、スザク」

 問われ、しかしスザクはすぐに返事を返すことができなかった。

「――はい」

 しばし逡巡して、ようやくたった二言だけ声を発する。
 そんなスザクの躊躇いなど意に介した風もなく、ルルーシュは艶やかな笑みをさらに深めた。スザクの応えが畏まったものであることも気にはしていないようだった。
 少し離れた場所に、護衛のため付き従っている兵士たちが数名いた。彼らのところにまで声は聞こえないだろうけれど、人の目があるところでスザクは臣下としての態度を崩さない。それがわかっているからルルーシュは何も言わないし、彼自身も主らしく振る舞う。
 話し合って決めたわけではないのに、二人は自然とそれぞれの役割を演じていた。
 スザクたちの立つ小高い丘の上は緑豊かで、耳を澄ませば鳥の囀りも聞こえてくる。ブリタニア帝国で数々の改革を断行し、正義の皇帝としてルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの名を世界に広めている現在の状況が嘘のようにのどかだった。平和そのものの風景の中に兵士たちの姿はもちろん、仰々しい皇帝とその騎士の服装はひどく不釣合いに思えた。
 しかし、平和でのどかな場所とはいえ、皇帝の護衛が数名とはいくらなんでも人数が少なすぎるだろう。
 誰もがそう思ったけれど、「護衛は付けるが、政務ではないから人は必要最低限でいい」と皇帝陛下直々に言われてしまえば、臣下たちが口を挟む余地はなかった。

『帝国最強の騎士がひとりいれば俺には充分だ』

 護衛などいらないと言ったあとスザクにだけ聞こえる声で付け加えられた言葉は、スザクの心臓を高鳴らせた。
 それは彼が自分にすべてを委ねてくれているという意味で、互いに銃口を向け合ったことは夢だったのだと勘違いしたくなるほどの信頼関係が今の自分たちにはあった。
 二人の間にもう嘘はない。皇帝と唯一の騎士になるまでの一ヶ月にすべてを曝け出したのだから、これ以上の隠し事は意味なんてなかった。
 (だからといって、自分の意志で死ねることは幸せだろうと問われても、すぐに頷くことなんてできないけど……)
 心の中で呟いた言葉を声に出さないのは、果たして嘘をついていることになるのだろうか。
 ふいにそんな疑問を抱いたところで、ルルーシュが笑みを浮かべたままスザクを振り返った。条件反射で臣下の礼を取る。

「だから俺は世界一の幸せ者だ」

 柔らかい口調で言い、ルルーシュはもう一度だけ丘の上からの景色を眺めるとすぐに踵を返した。スザクも黙ってその後を追う。視察と称した息抜きは終わったのだろう。

「悪かったな、こんなところにまで付き合わせて」
「いえ。陛下をお守りするのが自分の役目ですから。それに、久しぶりに穏やかな気持ちになれました」
「そうか。それなら良かった」

 良かった、と言うと同時にルルーシュの肩から少しだけ力が抜けたように見え、スザクは悟った。
 (――あぁ、これは僕のための息抜きか)
 近頃、ルルーシュ皇帝に賛同できない貴族の反乱が頻発していて、スザクもその討伐のためにランスロットを駆ることが多かった。
 おかげでここしばらくろくに休みも取れていないし、戦地に赴いたあとは若干殺伐とした気持ちを抱いていた。宮殿の広大な敷地内に緑の庭園もあったけれど、人工的に造られた庭にはどこか味気ないものを感じていたから、ひとりで足を伸ばす気にはなれなかった。
 そんな中での、皇帝陛下の突然の我が侭。我が侭といってもほんの三十分だけ城を抜け出すだけだから、本当にささやかなものだ。
 スザクも忙しいが、ルルーシュはもっと忙しい。こんな場所で油を売っている暇はないはずだ。彼ひとりならば、どんなに疲れていてもプライベートな時間をわざわざ作ろうとはしなかっただろうし、護衛を付けてまで城を抜け出そうなんてことも思わなかっただろう。だけどスザクが疲れていると察したルルーシュは、気まぐれで騎士を振り回している振りをしてスザクを外へと連れ出した。
 貴重な時間を割いてまで自分のことを気に掛けてくれていることに申し訳なく感じる。と同時に、ルルーシュにとって自分は特別なのだという実感が、じわりじわりと身体中に喜びとして浸透していく。
 義務や義理ではない。彼の心からの気遣いがあるのだと思うのは自分のうぬぼれではないはずだとスザクは思った。
 (そして、さっきの言葉も……)
 前を歩くルルーシュの背を見つめるスザクの表情が一瞬だけ翳る。

『俺は世界一の幸せ者だ』

 何気なくルルーシュは言った。
 そんなことは自分が心の中で思っていればいいことで、いちいち人に言いふらす必要なんてない。だけどルルーシュは口にした。スザクに言い聞かせるようにして。
 それは、ルルーシュの優しさだ。
 自分は望んだ方法で望んだ人間に殺される。だから幸せだ。だからお前は何も悪くない。
 ルルーシュはきっとそう言いたかったのだ。ルルーシュを殺したあとに、スザクが罪悪感など抱かないよう。
 自分は後世まで唾棄すべき存在としてその名を呼ばれるようになるというのに。本当の彼を知る一部の人間を除いては、彼が何を考え何を思って行動したのかひとつも理解されないまま死に、死んだあとも忌むべき者として名を残すことになるというのに。
 自分のことより他人の心配をする、どこまでも優しいルルーシュ。
 (君を殺す僕には、そんな優しさ必要ないのに)
 ルルーシュの優しさが今は少しだけ哀しかった。
 足元の草が歩くたびにさくりと音を立てる。
 こんなのどかな景色に囲まれてずっと過ごせればいいのに。そんなことが思い浮かばれたのは一瞬で、すぐにスザクはかぶりを振った。
 自分たちが望むのは過去でも現在でもない。明日だ。後悔なんて今は無意味だった。

「陛下」

 歩みを止めてルルーシュが振り返る。自ら決めたことなのに、名前を呼べないことが残念だと思った。
 どうした?と視線だけで問われ、スザクは小さく笑んだ。

「自らの意志で仕える方を選び、最期までその方のために働ける私も世界一の幸せ者です」

 スザクの言葉にルルーシュがわずかに目を見開く。そして、泣き笑いのような顔をした。

「――そうか」

 たった一言だけ返すと、スザクに背を向けて再び歩き出す。何も言わずにスザクもその後を追った。
 ルルーシュは何を思っただろうか。ただ、彼の優しさがしっかり自分に伝わっていることだけを伝えたかったのだけれど、もしかしたら余計なことだったかもしれない。
 後悔なんて無意味だと言った側から小さな後悔が生まれる。

「スザク」

 こっそり溜め息をつきかけたところで突然呼ばれ、スザクは慌てて息を飲み込んだ。

「俺はお前にすべてを託すことができる。自分の命も、この世界も」

 そのときのルルーシュがどんな顔をして言葉を紡いでいたのかはわからない。

「やっぱり俺は、幸せ者だ」

 でも、とても穏やかで優しい声だったから、きっと顔も穏やかだったに違いない。

「はい」

 小さく応えた声は、風に乗ってルルーシュの耳にも届いただろう。ふふっと笑う気配がして、スザクは眩しそうにその後ろ姿を見つめた。
 たった一言二言の言葉でも今の自分たちにはちゃんと届く。それがとても嬉しかった。心地良かった。
 できることなら、あと少しだけルルーシュと繋がっていたいと思った。

* * *

 自分の手のひらの上の携帯をスザクは仮面越しに眺めた。
 この部屋に通されてかれこれ二十分。その間、何とはなしに手の中で携帯を弄んでいる。
 電話がかかってくるのを待っているわけではない。どれだけコールしても繋がらないし、もう二度と着信もない。ゼロとして使用する携帯は別に持っているから、これは用をなさない無意味な道具である。
 しかしスザクはそれをずっと手放せないでいた。相手に繋がらないとわかっているのに、どうしても捨てることができない。
 馬鹿な感傷だと言われるだろう。自分自身でも何をしているのだと思う。
 だけど、この携帯の中には彼との繋がりが確かにあったのだという痕跡が残っていたから――。

「ゼロ?どうされましたか?」

 ハッとして仮面を被った顔を上げれば、そこにはナナリーがいた。
 彼女が部屋に入ってきたことにも気付かないなんて、と自分の失態に内心舌を打ちながらスザクはソファから離れた。車椅子の前に膝をつき彼女と目の高を同じにする。

「会談はもう終わられたのですか?」
「はい。無事に」

 ナナリーの希望で、この国のトップと二人きりの席が設けられたのが三十分前。ほかの者たちは大丈夫だろうかと危惧していたが、スザクはナナリーを信じてすべて任せた。世界の英雄ゼロがついて来ているのだから相手も下手なことはしないだろうし、何よりこの三年でナナリーも大きく成長している。ゼロの手がなくとも彼女ならひとりで充分やっていけると、スザクは思うようになっていた。

「共の者たちは?」
「外で待っていただいています。交渉内容についてまずはゼロにお伝えしようと思って」
「あなたひとりで交渉に臨まれたのです。もはや私の力は必要ない。自由にやってもらって構わないのですよ」
「そういうわけにはいきません、それに、私はまだまだ未熟者です。あなたやシュナイゼルお兄様の手を借りてばかりなのも良くないと思っていますが、私にはあなたの力が必要なのです」
「そうおっしゃっていただけるのは光栄ですね。ではほかの者たちも交えて報告を聞きましょう」
「はい」

 ナナリーが笑みを浮かべて返事をする。
 外で待機している文官たちを呼ぼうとスザクが立ち上がりかけたところで、「あら?」と不思議そうな声が聞こえた。
 どうしたのかとナナリーの顔を見れば、スザクの手にいまだ握られたままだった携帯に目を落としている。いつもゼロが使っているものとはデザインが違うし型も古い。どうしてそんなものを持っているのだろうと純粋に疑問に思ったのだろう。

「それはスザ…、ゼロのものですか?」

 本当の名前を呼びそうになってナナリーは慌てて言い直した。
 珍しい、と思った。三年前ならともかく、今では自分も彼女も周囲に取り繕うのがすっかり上手くなってしまったというのに、今日に限って名前を言い間違えてしまうなんて。
 単なる偶然だ。思ってみるけれど、スザク自身の思考が過去をぼんやり思い出していたことと、決して人には見せないようにしていた手の中の携帯が、それは偶然ではないかもしれないという仄かな期待を生み出す。
 少しだけ思い出話をしてもいいのではないか、という期待。
 スザクは再び車椅子の前に膝をついた。

「少しお時間をいただいても?」
「えぇ」

 突然の申し出にナナリーは躊躇うことなく頷く。

「……これは、私が昔使っていたものです」
「昔?」

 ナナリーが微かに困惑の色を浮かべる。昔とは一体いつのことかと、頭の中でいろいろな可能性を考えているのだろう。

「初めて持つことを許されたものでした」
「それまでは許されなかったのですか?」
「はい。私はそういう立場にありませんでしたから」

 ナナリーがハッとしてゼロの仮面を見つめる。
 名誉ブリタニア人は携帯電話を持つことが許されない。それはユーフェミアの騎士になったときも同じだった。スザクが初めて携帯を手にしたのはナイトオブラウンズになってからだ。
 聡明なナナリーはそのことに気付いてくれたのだろう。

「携帯を持てたことは、あなたにとって嬉しいことでしたか?」
「嬉しい……。そうですね、ようやくそれだけの地位を手に入れたと嬉しく思う気持ちは確かにありました。でも、本当は、――虚しさのほうが大きかったのかもしれない」
「虚しさ?」
「素直に喜べるものではなかった、という意味です」

 スザクがどういう方法でラウンズの地位を手に入れたのかナナリーは知らない。
 ゼロを捕らえた功績という表向きの理由は方々に知れ渡っている。しかし、彼女の兄を父であった皇帝に売り払ったのがその真相であるとは誰も知らないだろう。話して聞かせるつもりもない。あれはスザクと彼の間にあった出来事で、二人だけが抱えていればいい記憶だ。そして、今となってはスザクだけが覚えていればいいことであった。
 何かを察したのか、ナナリーはどうしてとは尋ねない。彼女の心遣いに感謝しつつ、スザクは言葉を続けた。

「でも、これを持てたおかげで、一度だけある人と繋がることができました」

 繋がるといっても自分は随分と殺伐としていたけれど、と心の中で付け加える。
 今になって考えてみても、あのときの電話はおかしなものだったとスザク思う。
 敵であり、誰よりも忌むべき相手であったはずの自分を彼は頼ってきたのだ。殺したいほど憎いけれど妹を任せるには足る人物だと判断するなんて、彼の思考回路は本当に不思議だった。

「ある人、ですか?」
「はい」
「それがどなたか、伺っても……?」

 ナナリーの瞳が微かに揺れている。
 きっと彼女は電話の相手が誰なのかわかっている。わかっていて、聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちとを抱えているのかもしれない。

「私のたったひとりの大切な親友です」

 スザクはそれだけを答えた。
 息を呑んだナナリーが視線を自分の膝の辺りに落とす。

「そう、ですか。大切な、親友の方……」

 嬉しいような哀しいような、安堵しているような。様々な感情の色をナナリーはその顔に浮かべている。
 あの電話からわずか数日で、スザクを取り巻く状況もスザク自身の考えも大きく変わった。まだ許せない気持ちが残っていた相手と再び手を組むことになるなんて、一体誰に予想できただろうか。
 少なくとも、彼があのとき妹の身をスザクに守ってもらいたいと電話してこなければ、世界はこんな風になっていなかったはずだ。
 スザクは携帯を持っていないほうの手で、ナナリーの小さな手を上から包むようにして握った。
 手袋を通しての体温だけれど、少しでも彼女に伝わればいいと思った。

「彼から電話があったのはそのときだけでしたし、私から彼に電話をすることもありませんでしたから、私たちの間でこの携帯が繋がったのはたった一度きりです」
「一度きりだったのですね」
「はい」

 大切な親友なのにどうして、とはやはりナナリーは尋ねない。ゼロの正体が彼だったとわかった今では、当時の二人の関係性も理解しているのだろう。

「だけど、私が携帯越しに彼の声を聞いたのは紛れもない事実です。たった一度でも、これは電話としての用をなしてくれた」
「えぇ」
「――だからです。私がこの携帯を捨てられないのは」

 アドレスも、彼との通話の記録も、この中にはまだ残っている。それはただのデータにすぎない。
 ほかのものはすべて捨てた。捨てられたとも言うのかもしれないが、彼個人の記録を残す痕跡はひとつも残されていない。残すことを許されなかったから意図的に捨てた。それを考えれば、過去の自分と彼の記録が残っているものなんて真っ先に捨てなければならないのだろう。
 しかし、スザクはこの携帯だけはどうしても手放すことができなかった。
 彼と、ルルーシュと確かに繋がっていたのだという証を、自ら捨てることはできなかった。
 決して繋がらない電話。もしかしたら、なんて期待しているわけではない。それでも、鳴らないとわかりきっている電話を持ち続けている自分は愚かだった。

「――っ」

 ふいに手の甲が包まれて反射的に顔を上げる。
 ナナリーの手を包んでいたスザクの手を、彼女がさらに上から握っていた。

「それでいいのだと思います。捨てる必要なんてありません。携帯を捨てないからといって、誰もあなたを責めたりしない。親友の方もきっとそうです。私も捨ててほしくありません。だから、どうかずっとあなたが持っていてください」
「ありがとう、ございます」

 浮かべられた笑みは彼女の兄にそっくりで、スザクは仮面の中で静かに瞳を閉じた。

「それに、その親友の方はきっと幸せだと思います。いつまでも思ってくださるあなたのような方がいて」
「幸せでしょうか?」
「えぇ。誰よりも幸せのはずです」

 幸せ、という単語にやはりこれは偶然ではなかったのだとスザクは思うことにした。
 瞼の裏に浮かんだのは遠い記憶。
 自分は幸せ者だと笑みを湛えたルルーシュの顔。

「昔、彼も言っていました」
「え?」
「自分は世界一の幸せ者だと」
「……それは、本当に?」
「はい」

 ナナリーが笑ったまま顔をくしゃりと歪める。

「そうですか。良かった……」

 堪えきれないように再び顔を伏せたナナリーの手に力が込められる。スザクは何も言わず、ただその手を重ねるだけだった。
 鳴らない電話ほど無意味なものはない。だけど、鳴らなくても繋げてくれるものはある。
 自分とルルーシュを。ルルーシュとナナリーを。
 それはただの感傷かもしれない。だけど、ルルーシュが確かに生きていたのだという証でもあった。
 もし彼がこの携帯を見たらなんて言うだろう。いつまでそんなものを持っているのだと呆れただろうか。それとも、ナナリーのように優しく許してくれただろうか。
 (どちらにしても、答えを聞くのは随分と先のことになりそうだ)
 そのコールが、いつか繋がることを夢見て。
 (09.07.01)