ワンルームの部屋に朝陽が射し、実に気持ちのいい朝だった。
平日はカーテンを開けることなく大学に行くし、休みの日は昼過ぎまで寝ているから、部屋の中で朝からまともに太陽の光を浴びるのは随分と久しぶりだ。
朝日というのはこんなに眩しいものなんだなと、清々しい気分で思ったのは半分は現実逃避だった。
「えっと……、食べない?」
テーブルの向こう側にいる相手に向かって恐る恐る話しかけた。彼は先ほどから皿の上をじっと見つめるだけで、スザク作のサラダと目玉焼き、それからソーセージには手をつけようとしない。
気まずいなぁと思ったが、黙っていても食事は冷めていくばかりである。仕方なく、スザクは焼き上がったばかりの食パンに手を伸ばした。バターを塗り付け、その上にさらに苺ジャムを乗せ、大きく口を開けてぱくついた。
食事に相応しい雰囲気ではないが、目が覚めたときからずっと空腹だったのであっという間に一枚を食べた。さらに二枚目と思って手を上げかけるが、残っているのは相手の分だと気付いてそろそろと下ろす。
「食べればいいじゃないか」
聞こえてきた声にびくりとする。顔を上げれば彼がこちらを見ていて今度はどきりとした。
紫の瞳が印象的だった。澄んだ湖みたいだと思う。このまま見続けていたら水の底に深く深く沈んでいきそうだ。
昨夜は薄暗い中で見ていたからちっともその色がわからなかったけれど、こんなに綺麗だったのかと純粋に驚いた。
「俺はこっちをもらう」
そう言って彼がフォークを手に取ったところで我に返った。
「あ……、パンならまだあるから食べるなら焼くよ」
「いや、あまり食欲がないからこれで充分だ」
食欲がないというのは本当のようで、サラダを食べるのすら億劫そうだ。やっぱり無理をさせすぎたのかな、と思うと同時に昨夜の記憶が蘇りそうになり、スザクは頭を振った。明るいときに思い出すことではないと、ひとまず食事に専念する。
静かな部屋にもぐもぐと咀嚼する音だけが響いていた。BGM代わりにテレビでも付けようかと一瞬考えたが、つまらない雑音でこの空気を壊すのももったいない気がした。息が詰まりそうな雰囲気なのにどこか心地良いような、なんとも不思議な感覚だ。
さほど量のない食事はすぐに終わった。食後に何か飲むかと尋ねたら紅茶と返ってきたので、ずっと使っていないティーバッグを棚の下から取り出した。お湯を沸かしてカップを二つ用意する。ひとつはインスタントコーヒー、もうひとつはお湯を注いだだけの紅茶だ。
スザクなりに苦労して淹れた紅茶を飲んだ彼は、不味いと一言言った。
「濃かった?」
「そもそもの問題だ。さっきのティーバッグ、いつのものだ」
「い、いつのかな……。でも多分、まだ賞味期限は切れてないよ」
苦し紛れのフォローをすれば胡乱な目を向けられた。どうやら紅茶にうるさいタイプらしい。
「悪かったよ。紅茶はほとんど飲まないからうちにはそれしかないんだ。嫌なら飲まなくて、」
「飲まないとは言っていない」
そう言った彼は、不味そうな顔をしながらカップを傾けた。そんなに不味いなら無理しなくていいのにと思いながら、スザクもコーヒーに口をつける。
簡単な食事と食後のお茶が終わると途端に手持ち無沙汰になった。汚れた皿を下げて後片付けしたものの、それもすぐに終わってしまった。
「あの、さ……」
テーブルに戻って再び彼と向かい合ったスザクは、散々躊躇った末に思い切って口を開いた。
「昨日は……、ごめん」
「それは何に対する謝罪だ」
「だから、その……、君を抱いたこと」
言葉にしてすぐ後悔したけれど、後悔しているのは彼のほうだろう。
(だって、どこの誰かもわからない人間と……)
そう、目の前の彼は友達ではない。親戚でもないし、恋人でもない。昨日初めて顔を合わせた見ず知らずの人間だ。
そんな相手を家に連れ込み、あろうことか抱いたのだ。お互い酒に酔っていたものの、一応は合意の上なのでこちらが一方的に責められることはないはずだ。
(だからって、男を抱くなんて有り得ないだろ)
頭を抱えたい気持ちだが、相手の手前それもできない。
こちらは抱いた側だからダメージはないに等しい。しかし、抱かれた側の彼はどうなのか。
ベッドを下りようとしたら床に崩れ落ちそうになり、そのまま浴室までスザクが抱え、浴室から出たあとはまたスザクが抱えてリビングへ運んで来たような状態だ。現在はクッションの上に座ってベッドに凭れかかっているが、身体的なダメージは抱かれた経験のないスザクには計り知れなかった。
(でも、その割には妙に落ち着いていると言うか……)
ちらりと窺った彼は、先ほど不味いと酷評した紅茶を優雅に飲んでいる。安いマグカップが高級品みたいに見えるのは彼の雰囲気のせいなのか。
それにしても落ち着きすぎている。初対面の他人の部屋で、自分を抱いた男が目の前にいるというのに、動揺したり萎縮したりという様子はまったくない。最中はどうだっただろうと思い返し、うっかり彼の痴態が蘇ってしまったので慌てて雑念を振り払った。
確かに彼は綺麗だ。最初は女の子だと勘違いしたほどの美人である。が、服を脱がせれば女性にはないものがしっかりついていたから性別は間違いなく男だ。にもかかわらず、酔った勢いでセックスしてしまった。
しかも、彼には口が裂けても言えないが、なかなか悦かった。体の相性だけを考えれば、もう一度やってもいいかなと思うくらいである。
だが、そこはノーマルな人間なので、酔ってもいないのに男相手に勃つとは思えない。それは彼だって同じだろう。
ならばなぜ、彼はこの部屋に来たのだろうとふと疑問を抱いた。部屋に誘ったときはまだ正常な思考が残っていたはずなのにすんなりついて来たし、行為の間も抵抗らしい抵抗はされなかった。まさか、と思ったときに彼の瞳がスザクを捉えた。
「先に言っておくが、俺は同性愛者ではない」
「えっ……、ま、まだ何も言ってないけど」
「そう言いたそうな顔をしていた」
「ぼ、僕だって違うよ」
「知っている」
なんで? と聞き返そうとして、そういえば彼相手に愚痴ったのだと思い出す。大学に入って六人目の彼女に別れ話を切り出されたのは慣れっこなので別にいいが、「スザクは人の心がないのよ」とまるで非人非のような表現をされたのが腹立たしく、昨日はずっとむしゃくしゃした気分だった。だから、ひとりで飲んで憂さを晴らそうとバーに行ったのだ。
と言っても、バーに慣れ親しんでいるわけではない。先輩に連れられて一度行ったきりで、店内に足を踏み入れた瞬間はひどく緊張した。それでも駅前の居酒屋にしなかったのは、あの騒々しい空気が嫌だったからだ。
勝手がわからないまま適当に酒を頼み、薄暗い店内をなんとなく窺った。そんなカウンター席の端っこに彼はいた。
ひと目見た瞬間に目を奪われ、絶世の美女とはああいうのを言うのかなと思った。
自分同様、彼もひとりで飲んでいて、その横顔がどこか哀しそうなのが印象的だった。だからではないが、なんとなく慰めてあげたい気持ちになって声をかけたのだ。相手が男であることはすぐにわかったけれど、同性同士の気楽さですぐに意気投合した。
やがて夜も更けて店が閉店するという時間になったとき、帰りたくないなと彼がぽつりと呟いた。だったらうちにこない? と誘い、店員の目がないのをいいことに彼の手を握った。
飲み直そうという意味での誘いではないことに彼はちゃんと気付いただろう。そうでなければ、あんなに艶っぽい瞳でこちらを見つめ返さなかったと思うし、玄関先でキスをする前に最後の確認で「いい?」と短く尋ねたときにも頷かなかったはずである。
そのあとのことは思い出すと赤面しそうだ。無我夢中だったと表現するのが相応しいかもしれない。早熟で中学生のときにはすでに年上の先輩と初体験を済ませていたスザクだが、あんなにセックスに夢中になったのは初めてだった。それほど彼は悦かった。男なのが本当にもったいない。
「そんなに動揺するな。俺は何も気にしていない。犬に噛まれたとでも思っておくさ」
「そ、そう……」
言葉の通りまったく気にしていない様子に安堵するが、同時にガッカリもした。そんな自分の感情に気付き、なんでガッカリするのだと首を捻る。相手が気にしていないと言うのだからそれでいいではないか。すべては若気の至りだ。昨夜のことは夢で、彼がこの部屋を出た瞬間に何もかも消えてなくなるような出来事でしかない。
(同性愛者でもないのに男と寝たなんて、そんなのすぐに忘れたいよな)
それが普通だよなと考え、思いのほか落ち込んでいる自分がいた。彼にとっても自分にとっても全部忘れてしまうのが最善じゃないかと思うのに、どうして認めたくないのだろう。
物思いに耽っていたらガシャンと耳障りな音がして我に返った。床にマグカップが転がり、彼の右手と服は濡れていた。
「ちょっと、大丈夫? もう、危なっかしいなぁ」
テーブルにマグカップを置き損ねたようだ。紅茶を淹れてだいぶ経つから火傷はしていないだろう。
台所から布巾を取ってきて濡れたシャツやズボンを拭く。こんなに濡れているなら着替えたほうが早そうだ。ちょっと脱いでと頼むために顔を上げたスザクは、そこで口を開けてぽかんとしてしまった。
昨日から今朝まで、ずっと取り澄ました顔をしていた彼がなぜか真っ赤になっている。
「どうしたの?」
膝を寄せると、彼が突然「ほわぁ!」と素っ頓狂な叫び声を上げた。見かけによらず可愛い悲鳴だなと思いつつ、もう一度近付こうとすれば、今度ははっきり拒絶された。後ろはベッドなのでこれ以上は下がれないが、必死に体をスザクから離そうとしている。
「何してるの?」
「い、いや、なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないよ。まさか熱でも出た?」
何気なく額に手のひらを当てれば、彼の体が硬直したことに気付いた。瞬きを忘れた瞳は微かに潤み、頬は先ほどよりも染まっている。
「え……、もしかして、今ごろになって照れてる、とか?」
昨日から色々なことを散々やっておきながら今になって照れるわけがない。そう笑い飛ばそうとしたスザクは、しかし相手が完全に固まってしまっているのを見て、嘘、と口の中で呟いた。
どういうことなのか。なぜ今になって盛大に恥ずかしがるのだ。
(僕との距離が近くなったから……?)
明るい陽の下で相手の顔を至近距離で見たことが原因なのか、直接触れられたことが原因なのか、どちらが真実かはわからないが、少なくとも彼が大いに照れまくっていることは間違いない。
つまり、今まで平気そうだった顔はすべてポーカーフェイスというわけだ。そのことに気付き、スザクは眉を寄せた。
(やっぱり、体が痛かったりつらかったりするんじゃ……)
平気なふりをしていたのは男としてのプライド、もしくは単なる強がりなのだろう。
いずれにしろ、今まで抱いていた彼の印象ががらりと変わる。つんと澄ました美人が、実は意外とドジで意地っ張りだった可能性がある。そう思ったら、急に胸がドキドキし始めた。
なんだこれとスザクのほうが動揺していると、彼が突然「帰る」と言い出した。
「えっ?」
「帰る。俺の服はどこだ」
「えっ、で、でも、体のほうは……」
「車を呼ぶから問題ない」
自ら服を探し出した彼はさっさと着替えを始めた。濡れた服を脱いだときに裸の背中や生足が見えてしまい、同性相手だと言うのについ目を逸らしてしまう。
背中にスザクのつけた鬱血の痕があることは言わないでおこうか、それとも念のために伝えておいたほうがいいのだろうかと悩んでいるうちに彼の着替えは終わり、鞄をひとつ持つと玄関へ向かって歩いて行った。その足取りは少々危うい。
「ちょっ…、ちょっと待って!」
靴を履いて外に出ようとする彼の腕を掴んだ。
「あの、名前、君の名前を教えて」
今さらすぎる質問だ。名前なんて出会った当初に教え合うものなのに、今の今まで彼の名前を知らなかった。
「――ルルーシュだ」
答えてくれないかもしれないと半ば諦めていたけれど、小さく返ってきた名前はスザクの耳にしっかり届いた。
「僕はスザクって言うんだ。今さらな自己紹介でごめん。それで、その、僕が言うことじゃないかもしれないけど……、また会えないかな」
「会ってどうする。またセックスするのか?」
皮肉っぽく笑った彼に首を振る。
「ちゃんと話がしたい。君のこともっと知りたい」
「まるでナンパだな」
「ナンパなら昨日したよ。だって、僕は君のことが――」
そこまで口にして、自分は何を言い出そうとしているのだと愕然とした。同時に、ひどく納得もした。
(だって好きじゃなかったら男なんて抱かない)
しかしその気持ちを声にするのは勇気が必要だった。出会ってたった一日の相手に好きだなんて、しかも男相手にそう簡単には言えないし、言われたほうも困るだろう。
それをどう捉えたのか、彼が手を振り払った。
「あんなのはただの遊びだろう? お前は彼女に振られてむしゃくしゃしていた。それだけだ」
「それだけなんかじゃない! そんな理由で君を抱いたりしない!」
「どうだか」
馬鹿にするように嗤った彼の横顔はどこか寂しそうに見えた。昨日と同じように。
「本当だよ」
「だったら、もう一度俺を探してみるんだな。お前が自力で俺を見つけ出せたら、そのときは考えてやる」
せいぜい頑張れよ、と告げて彼はドアを開けた。玄関が明るくなり、すぐにまた薄暗さを取り戻した。
その場に突っ立っていたスザクは、閉ざされたドアを呆然と見つめた。
「探すって、どうやって……?」
呟いた声に応えてくれる人はいなかった。
スザクが入社した会社で、社長秘書として働くルルーシュの姿を見つけるという奇跡のような再会を果たすのは、それから半年後のことである。
(16.01.23)