彼はいつもその樹の下にいた。
その樹の下に立ち、どこか遠くを眺めていた。
「ここで何をしてるの?」
初めて彼と話をしたとき、僕はそう尋ねた。
「ここに来る人を待っているんだ」
彼はそう答えた。
「その人はいつ来るの?」
僕が聞くと、彼は笑った。
「さあ、いつ来るんだろうな」
どうして来ないかもしれない人を待っているのだろうと僕は不思議に思ったけれど、彼があまりに優しい顔をしていたから、彼を悲しませるようなことは口にできなかった。
そして、彼の待ち人が少し羨ましくなった。いつまでも彼に待ってもらえることが羨ましかった。
僕なら彼を待たせたりしないのに。
そんな不満を抱いた理由を、その頃の僕はまだ知らなかった。
***
不思議なものが見える体質ではなかったはずだ。
幽霊といったものにも縁遠く、普通に日常生活を送る子どものはずだった。
だから、初めて彼を見たときは彼が幽霊だと気付かなかった。黒い制服を着て、樹の下に立っている高校生としか思っていなかった。
どうやら生きている人間ではないらしいとわかったのは、小学校に入学してから二ヶ月が過ぎた頃だ。
朝から雨が降る中、その日も彼は樹の下にいた。毎日同じ時間にそこに立っている彼はここで何をしているのだろうと疑問に思うことはあっても、不気味さを感じることはなかった。
でも雨のその日、彼が傘もささずにいつものように立っているのを見て、小学生の僕もさすがに不審を抱いた。そして、よくよく目を凝らせば、雨粒が彼の体を通り抜けて地面を落ちているのに気付いた。
この人、幽霊だ。
直感的に悟ったとき、僕は声を上げそうになった。助けを求めようと慌てて周囲を見回した。しかし、行き交う大人たちは幽霊など気にした様子もなく、雨の中を目的地に向かって真っ直ぐ歩いていた。
傘があるから見えていないのだろうか。だけど、思い返してみれば晴れている日も皆、同じ反応だった。彼を見て騒ぐ人もいなければ、この辺りに幽霊が出るという噂も聞いたことがない。
じゃあこの幽霊は僕にだけ見えるのかな、と恐る恐る彼のほうを窺えば、どこか遠くに視線を向けていた彼がこちらを向いた。目と目が合った瞬間、背筋がぞっとして僕は声もなく逃げ出した。
泥水が跳ねるのも気にせず、学校まで休まず走った。教室に駆け込み、幽霊が出たと叫びそうになった。実際は声なんか出なくて、僕は椅子に座り込んだ。
生まれて初めて幽霊を見た。そのことをどう処理すればいいのか六才の僕の頭では処理しきれず、その日は一日中ぼんやりしていた。ひとつだけわかっているのは、今日から違う道を帰ろうということだった。
小学校に上がって以来、ずっとあの通学路を通っていたけれど、もう二度とあの道は通らないと誓った。朝だろうと昼だろうと幽霊なんて気味の悪いものは見たくなかった。
なのに、一ヶ月ほど違う道で学校に通っていると、今度は彼のことが気になるようになってしまった。毎日目にしていたから、その姿を見かけないと逆に落ち着かない気分だった。
相手は幽霊だ。近付いたら変なことをされるかもしれない。テレビのドラマで幽霊にとり殺された人のように僕も憑かれてしまうかもしれない。そんな不安と恐怖を抱えながら、それでも僕はいつもより少し早く家を出て、いつもなら通り過ぎる樹の前で立ち止まった。
いつものようにどこか遠くを眺めていた彼が僕を見た。ランドセルを握り締めた僕は、竦みそうになる足を必死に動かした。
彼の前で立ち止まり、彼の顔を見上げた。
そのとき初めて、とても綺麗な人だということに気付いた。今まではその他大勢のひとりだったからちゃんと確認したことがなかったし、目が合ったときは恐怖のほうが勝って美醜を判断する余裕なんてなかった。幽霊でさえなければ、初めて彼を見たときに素直に綺麗だと思えただろう。
綺麗な人は幽霊でも男でも綺麗なのかと、僕は言葉も忘れてその人の顔を眺めていた。
すると、彼が小さく首を傾げた。黒髪がさらりと揺れ、そして、僕を見て柔らかく微笑んだ。綺麗な顔に似合う、とても綺麗な笑みだった。あまりに綺麗で息をするのを忘れてしまったくらいだ。
「あのっ」
思い切って出した声はひどく上擦っていた。しかも先に続ける言葉を見失ってしまった。困って口を開いたり閉じたりしていると、彼が笑みを深めた。
「どうした?」
初めて聞いた声は思いのほか低かった。でも、微笑んだ顔と同じくらい優しい声音だった。
「お兄さんは幽霊?」
あんなに言葉を探していたのに出てきた質問は直球で、彼はきょとんとした表情を見せた。それから可笑しそうに吹き出した。
「幽霊に向かってお前は幽霊かと直接尋ねる人間がいたとはな」
「お兄さん、やっぱり幽霊なの?」
「ああ、そうだ」
幽霊ではないと否定されても困惑するが、あっさり認められるのもなんだか調子が狂う。しかも、幽霊らしからぬ口調だ。もっとおどろおどろしい声を想像していたから、普通の学生のような受け答えに拍子抜けした。
「ここで何をしてるの?」
「ここに来る人を待っているんだ」
「その人はいつ来るの?」
「さあ、いつ来るんだろうな」
彼は笑った。優しいのに、哀しそうな笑みだった。
いつ来るかわからない人をどうして待ち続けているのだろう。僕は首を傾げたけれど、疑問は口にしないでおいた。それを聞いたら彼が悲しむような気がしたのだ。
「そんなことより、学校に行かなくていいのか? 遅刻するぞ」
幽霊に遅刻を心配されるのはなんだか変な気分だ。
いつもより早く家を出たから時間はまだ大丈夫だけど、どうして早く家を出たのかについて説明するのはなんだか照れくさい。でも彼の元を離れるのは名残惜しくもあり、僕はランドセルを握り直すと唇を尖らせた。
「また帰りにおいで」
優しく頭を撫でられ、ハッとして顔を上げた。幽霊なのに彼の掌からはなぜか温かさを感じた。
「俺のこと触れるの? 幽霊なのに?」
「まあな」
笑っている彼に、僕も自然と笑みを浮かべていた。その刹那、彼がびっくりしたように目を瞠り、今にも泣き出しそうな顔でまた笑った。
「俺はここで待っているから、いつでも好きなときにおいで」
彼の手が離れて行くのを残念に感じながら、僕はうんと頷いた。
学校が終わったらまた来ると告げて、いつもの通学路を駆けて行く。振り返れば、彼は僕を見送っていた。大きく手を振ると、小さく振り返してくれた。なんてことないやり取りが嬉しくてたまらなかった。
あんなに気味が悪いと思っていた幽霊のはずが、不思議と怖さはまったくなく、ただただ温かい気持ちだけが残った。
以来、学校へ行く前に彼と会い、帰りにその日一日の出来事を彼に報告するのが日課となった。
朝はいってきますを言い、帰りはおかえりと言ってもらえる。家でも同じ挨拶を交わしているのに、彼とのやり取りは特別なもののように感じられた。
通学路にはいつも人通りがあったけれど、彼と一緒にいる間は彼だけでなく僕の姿も消えているようで、周りの目を気にせず話せるというのも便利だった。僕まで幽霊になったみたい、と無邪気に面白がれば苦笑いが返ってきた。
家と学校と幽霊の彼。親にも学校の先生にもクラスの皆にも内緒の知り合いは、僕の密かな自慢だった。
しかし、学校が終わるとすぐさま彼のところへ向かうので、そのうち「ちゃんと友達とも遊ばなければ駄目だぞ」と叱られてしまった。だってここに来るほうが楽しいもんと訴えれば、お前は生きている人間なんだから周りの人ともっと関わらなければいけないと諭された。
だから仕方なくクラスメートと遊ぶようになった。そうしていると友達も悪くないと思えるようになったけれど、頭の片隅にはいつも彼がいた。
その習慣は小学校の間はもちろん、中学生になっても続いた。
中学生になったばかりのある出来事だ。学校の帰り道で女の子から告白された。
彼女を持つということに興味はなかったけれど、友人たちが彼女を欲しがっているのを思い出し、興味本位で付き合ってみることにした。
そのことはすぐに彼に報告した。テストの結果も友達との会話も彼にはなんでも話してきたから、隠し事をするという発想がなかったのだ。
「僕ね、彼女ができたんだ」
彼女ができるのは悪いことではないから、きっといつものように喜んでくれるだろうと思っていた。でも、彼の顔を見て僕はぎくりとした。
綺麗な瞳を大きく瞠った彼は、僕を見て固まっていた。その表情は呆然としていて、ひどく哀しそうに見えた。
「そ……、そうか、彼女ができたのか。おめでとう」
我に返って祝福の言葉をくれたけれど、心からの言葉とはとても思えなかった。その証拠に、話題を変えても彼は元気がない様子だった。小学一年生のときからすでに六年近い付き合いなのだ。普段と違う空気が流れればすぐに気付く。
どうして彼は喜んでくれなかったのだろう。どうしてあんなに落ち込んだ様子だったのだろう。彼の哀しそうな顔が脳裏にちらついて、結局、初めての彼女とはさほど長く続かずに別れた。
その後も何度か告白され、今度こそ気に入るかもしれないと何人かと付き合ってみたけれど、どれも最初と同じですぐに終わってしまった。どうして駄目なんだろうと自分でも不思議だった。悪い子たちではなかったのに、いざ付き合ってみると何かがしっくりこない。
でも、恋人に関する話は彼には一切しなかった。どんなことでも話してきた僕が初めて隠し事をした。
彼女ができたと報告したときの哀しげな表情が頭から離れず、彼にはこの話をしてはいけないのだと本能的に悟ったからだ。何より、彼の哀しそうな顔はもう見たくなかった。
だったら誰とも付き合わなければいいのだが、その頃の僕は言葉にできない焦燥感に駆られていた。普通に学生をして、普通に彼女を作って、普通に進学して、普通に就職して、普通の人生を送らなければいけないという気持ちは強迫観念に近いものだったかもしれない。
どうしてそう思うのか、どうしてそこまで普通にこだわるのか、僕自身にもわからなかった。ただ、普通でなければいけないのだと思い込もうとしていた。
彼もきっと僕が普通であることを望んでいる。
そのときの僕はなぜかそう信じていた。
***
「あ、咲いてる」
彼の隣の樹を見上げて僕は無意識に呟いた。
「もうすぐ満開になるな」
「いつの間にか咲いてたんだね。全然気付かなかったや」
「毎日ここに来るくせに何を見ているんだ」
くすくす笑う彼に、君だよ、と僕は胸の中で応えた。
(毎日君を見ているんだよ)
今年、僕は十八歳になる。さすがにこの年になれば彼に向けている自分の感情がどういう種類のものなのか理解していた。
幽霊に恋をするなんて前代未聞だろう。そういう昔話があったかもしれないが、現実として自分の身に起こってみるとなんとも信じがたい。
第一、彼は男だ。幽霊ではなく人間だったとしても、端から恋が実るはずのない相手である。
「ここの桜を見るのも十二回目になるんだね」
「そうか、もうそんなに経つのか」
「もうって、幽霊に時間の概念はあるんだっけ?」
「何年経ったかは意識すればわかる」
「ふぅん」
小学一年生から高校三年生になる現在まで彼とは毎日のように過ごしているけれど、僕が話したいことを話し、彼は僕の話に耳を傾け、相槌を打つというのがいつもの流れだ。彼自身のことを詳しく聞いたことはないかもしれない。
どうして死んだのかとか、いつからここにいるのかとか、どうしてここに留まっているのかとか、まったく気にならないと言えば嘘になる。でも、知ってしまったら彼がここからいなくなってしまうのではないか。そんな予感があったから何も聞けなかった。
怖いのだ。彼が消えて僕の前からいなくなることがほかの何よりも怖い。
それは、彼を好きだからという理由だけではない気がした。何が怖いのか自分でもよくわからない。確かなのは、いつまでも彼と一緒にいたいというささやかな願いだけだ。
(でも、君が何を見ているのかはずっと気になってる)
初めて彼の存在に気付いたとき、彼はどこか遠くを眺めていた。それは現在も変わらない。会話が途切れてふと彼のほうを見れば、彼はいつも同じ方向をじっと見つめていた。
今だってそうだ。僕が話しかけたときは嬉しそうに笑みを浮かべてくれたのに、気付けばまたどこかを見ている。
「ねえ」
声をかければすぐに意識を戻してこちらを向いてくれた。
だけど、焦れったい。いつも自分のことを気にかけてもらいたい。そう思うのはひどく子どもっぽいとわかっているのに、彼の一番は僕であってほしいという独占欲が胸の中に渦巻く。
「何を見ているの?」
僕の質問に彼は少し考える素振りをして、それから微かに笑った。透き通るように綺麗で、どことなく寂しい笑みだった。
「お前だよ」
「え……?」
「ずっとお前を見ている」
「何言ってるの」
だって僕はここにいるのに、君はいつも違うところを見ている。喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
それを尋ねても彼はきっと答えてくれないだろう。いや、ちゃんと答えは返してくれる。でも、その答えはきっと本当じゃない。
「――なんで、僕には君が見えるのかな」
「さあ、なんでだろうな」
「君はさ……」
僕のことどう思っているの。
その質問も口にはできなかった。幽霊相手に何を聞こうとしているのだと自分自身に嗤う。
もし好きだと言われて、両想いだったとして、それでどうするつもりなのだ。僕は人間で、彼は幽霊。スタートからして成立しない関係だ。
「何か聞きたいことがあるんじゃないのか?」
「ううん、やっぱりいい」
首を振り、彼がいつも見ている先に目を向ける。そこには森があった。
もちろん自然の森ではない。平和の森という名前があるらしく、人々の憩いの場となっている国立公園だ。
この土地に長く住んでいるのに、歴史や文化遺産といったものにあまり興味がないから、平和の森と呼ばれる場所がどういう意味を持つのか僕は詳しく知らなかった。
周りにビルがそびえ立つ中、青々とした緑がそこだけ広がっているのはなんだか不思議な光景だった。
(あの森に何かあるのかな)
調べてみればわかるかもしれない。何かがわかれば、生前の彼に繋がるものも出てくるかもしれない。
どうして今まで閃かなかったのだろうと自分の鈍さに呆れる。彼が見つめる先は最初から知っていたくせに、今頃になって調べようと思い付いたのだから鈍いなんてものではない。
彼を別れたあと、僕は図書館へ向かった。まずは平和の森の意味からだと、端末を使って森の歴史を探す。
結果はすぐに出た。表示された文字を追った僕は、その意味をどう捉えればいいのかわからなくて画面を見たまま固まった。
そんな馬鹿なという気持ちと、信じられないという気持ち。いろんな思いがぐるぐると巡り、ただただ呆然と文字の羅列を眺める。
「ほかの資料……」
ぽつりと呟いた自分の声にハッとした。
ネットの情報だから嘘かもしれない。本ならばもっと確実なことがわかるだろうと席を立った。関連の資料はすぐに見つかった。たくさんの本が書架に並んでいた。たくさんありすぎて、どれを手に取れば知りたいことを調べられるのか逆にわからなくなってしまった。
悩んでいても仕方ないと、近くを通りかかった職員に声をかければ専用のカウンターを教えてもらった。そこで僕が探していることを伝え、希望する内容が載っているであろう本をいくつか紹介される。再び書架に戻った僕は、抱えられるだけの本を手に取った。
近くの自習席を陣取り、何冊も何冊も開いては閉じ、この辺りの古い地図で場所を確認し、昔の写真が残っていないか調べた。
やがて閉館時間を告げる館内放送が流れると、慌てて机の上を片付けた。上限いっぱいの本を借りて家路を急ぐ。家に帰ると夕食もそこそこに部屋へと籠もり、もう一度資料を漁った。
そうしてネットで見た情報が嘘であることを証明しようと必死になった結果は、最初の情報を裏付けるだけとなった。
紙が変色して古びた本をぱらりと開く。最初のページに一枚の写真が載っていた。
『神聖ブリタニア帝国第九十九代皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア』
その名前を口の中で繰り返した。
教科書に出てきた昔の人物だ。悪逆皇帝と呼ばれる人は三百年も前の人で、僕にとってはほかの歴史上の人物とさほど変わらない認識だった。小学校のときから授業で何度も取り上げられているはずなのに、真面目に聞いていなかったせいか、その名前と彼の功罪が記憶の隅っこに微かに残っている程度でほかはあまり覚えていない。
古い写真をそっとなぞる。驚くべきことに、毎日会っている幽霊の彼と悪逆皇帝はよく似ていた。
どうして今まで気付かなかったのかと不思議になるくらいそっくりだ。
「ルルーシュ……」
恐らくそれが、僕にいつも優しくしてくれる幽霊の名前だった。
その夜、僕は夢を見た。
夢だったのか、過去の記憶だったのか、それともあの頃に精神だけが戻ったのか、どれが正しいのかはわからない。ただ、この光景を知っていると僕は理解していた。
部屋の中には二人の人間がいた。
ひとりはルルーシュだ。本にあった写真と同じ姿だ。
そしてもうひとりは、僕と同じ顔をした人間だった。
二人は会話をしていた。ルルーシュはソファに座り、資料を捲りながら夢の中の僕に話しかけていた。夢の中の僕は窓辺に立ち、ルルーシュの後ろ姿を見ながら話していた。
これは歴史に残るあのパレードの直前だと、僕の頭にするすると状況が入ってくる。二人は最後の打ち合わせをしていたのだ。
「生まれ変わりなんて信じるわけがないだろう」
どういった会話の流れだったのか、ふいにルルーシュの声が僕の耳に届いた。
「稀に前世の記憶を持ったままの子どもがいるという報告はあるし、その子どもが語った前世は確かに存在したという事例も否定するつもりはない。だが実際、自分の身に起こるかどうかを考えれば、答えは限りなくノーだな」
「どうして?」
「俺は地獄に行く予定だからだ」
その答えに夢の中の僕は口を噤んだ。生まれ変わりなんて話題を出してしまったことを後悔すらしていた。ルルーシュはそんな僕の後悔など気付いた様子もなく、饒舌に話を続けた。
「仮にどんな人間でも生まれ変われたとして、地獄に行くような人間が生まれ変わるのはきっと最後の最後だ。もちろん、信じていないというだけで、絶対に有り得ないと否定するつもりはない。ただ、生まれ変われたとしてどうなる? 俺という人間が存在するのは、俺自身の記憶があるからだ。俺の名前も俺の記憶も持たない人間なんてただの他人でしかない」
「それは君のお父さんのギアスを言っているの?」
「その話は思い出すといまだに腸が煮えくり返るからやめろ」
ルルーシュが振り返った。毎日見ている幽霊の彼と同じ顔が、同じ瞳が、夢の中の僕を見た。
「じゃあ――」
少し躊躇った僕は、窓際から離れてソファの背もたれに手を付いた。ルルーシュの顔が目の前にあった。
「じゃあ、約束するよ。もし僕が生まれ変わったら、僕は必ずルルーシュを見つける」
「なんだその約束は」
「もしもの話だよ」
「意味のないもしもだな」
「でも、絶対にないとは限らないんだろう?」
「あのなぁ」
「僕は君を見つける。だから待っていて」
じっと僕を見ていたルルーシュは、息を吐くと背を向けた。
「わかったよ。お前が来るまで待っていてやる」
「そしたら今度は一緒にいてね」
「――ああ」
相槌が返ってくるのに少し間があった。泣いているのかもしれないと思ったけれど、ルルーシュがこのくらいで泣くわけがないとも思った。
そしたら今度はお前とずっと一緒にいるよ。
小さな声は夢の中の僕にしっかり届いた。
ずっと一緒に。僕が言いたくて、でも言えなかった言葉をルルーシュが伝えてくれた。それだけで充分だった。
薄い肩に触れようとして、その掌を強く握り締める。こんなに細い体をあんなに長い剣で刺し貫くのだと思ったら泣き叫びたいような気持ちになった。
だけど、もう弱音は吐けない。ルルーシュがちゃんと成し遂げられるように、ちゃんと逝けるように、僕は僕の役目を果たさなければいけない。
もっと普通に友達をしたかった。ぽかりと浮かんだのは後悔だ。
その後悔を押し殺し、僕はソファを離れた。泣いてはいなかった。今、泣いたらルルーシュが迷う。だから、絶対に泣かなかった。
「スザク」
部屋を出る直前にルルーシュが僕の名前を呼んだ。夢の中の僕は振り返らなかった。
「ありがとう」
柔らかいルルーシュの声がじわりと胸の奥まで染み込んだ。止まっていた足を踏み出して、今度こそ部屋を出て行く。
そこで夢は終わった。
目を開けば暗闇の中にいた。外は風が吹いていて、窓が微かな音を立てている。
彼は今もあの樹の下にいるだろうか。たったひとりで、自分が死んだ場所を見つめているのだろうか。
そう思ったらたまらない気持ちになって、僕はまた目を閉じた。瞼の裏に浮かんだのは、彼の綺麗な笑顔だった。
(僕はちゃんと約束を守ったよ、――ルルーシュ)
友達で、敵で、共犯者で、そして、どうしようもないくらい好きだった人の名前を僕は呼んだ。
翌日。あれから一睡もしなかった僕は、まだ夜の冷たい空気が残る中を出かけた。
不思議な感覚だった。僕は数日後には高校三年生になる十七才で、昨日まではどこにでもいる学生だった。でも、あの夢を見てすべてを思い出した。
僕が誰だったのか、過去の自分が何をしたのか、何もかも思い出したというのに心は驚くほど凪いでいた。普通はもっとパニックになりそうなものだが、ああそうだったのかと簡単に納得している。まるで、こうなることを生まれたときから予感していたみたいだ。
途中、休日出勤のサラリーマンや犬の散歩をする人とすれ違いながら、いつもの場所へ足早に向かう。
こんなとき、相手が幽霊というのは便利だ。朝早くて迷惑じゃないだろうかとか、もう起きているだろうかとか、そういうことを気にしなくていい。
しかし僕の予想に反して、その樹の下に彼はいなかった。心臓をぎゅっと握り締められたような苦しさに、僕は引き攣った息を飲み込んだ。
もつれそうな足を必死に動かして樹のところまで駆けた。まさかもう消えてしまったのか。それとも、こちらが思い出したことを察していなくなってしまったのか。
「なんで……」
呆然と呟いた僕の目の前に、薄紅色の花弁がひらりと舞った。昨日よりも開いている花が多い。もうすぐ満開だと言った彼の横顔を思い出し、僕は両手をきつく握った。
「どうした?」
背後から聞こえた声に勢いよく振り返る。
そこにはいつもと同じ黒い制服を着た彼がいた。樹の幹に手を付き、今日は早いんだなと首を傾げている。
安堵のあまり僕はその場にへなへなと座り込んだ。
「どうした、大丈夫か? 気分でも悪いのか? 立てないほど具合が悪いのならわざわざ来なくても良かったのに」
「違うよ、ちょっと疲れただけ」
大きく息を吐き出して項垂れる。
「どこ行ってたの」
「俺はここから離れられないからどこにも行けないと知っているだろう」
「じゃあなんで消えてたの」
「お前がこんな時間に来るとは思わなかったんだ。それよりどうしたんだ? 学校はまだ春休みだろう?」
「うん。君に会いたくて」
顔を上げて真っ直ぐ伝えれば、きょとんとした彼は可笑しそうに笑った。
「それは光栄だな」
「本気だよ」
ムッとして告げても彼の笑い顔は変わらない。小学生のときからの付き合いだから、彼にとっては子どもを相手にしているようなものなのだろう。もう高校生なのに、と胸の内でぼやく。
「僕さ……」
何を話そうかはあらかじめ決めていた。全部確かめようと決心もしていた。
(だって、僕は『枢木スザク』だから)
彼は三百年前に死んだルルーシュ・ヴィ・ブリタニアで、僕は彼の騎士の枢木スザクだった。
今の名前も同じ枢木スザクというのは偶然だろうか、それとも必然だろうか。
お互い地獄に行ったはずなのに、どうして僕だけが生まれ変わり、ルルーシュは幽霊のままなのだろう。どうしてルルーシュは僕が枢木スザクだと知っているのに、一度も「スザク」と呼んでくれなかったのだろう。どうしてルルーシュはこの場所から離れられないのだろう。
どれもこれも今さらな疑問だ。出会ってから十一年、この四月で十二年目になるのに、二人とも名乗っていなかったなんて信じられない。でも、今の今まで疑問に思ったことすらなかった。名前を呼ばなくても会話が成立していたからまったく気付かなかったのだ。
(僕の名前を呼ぶことも、自分の名前を呼ばれることも嫌だったのかな)
そう考えたら少し寂しくなった。せっかくこうして再び会えたのに、彼はどんな気持ちで僕と接していたのだろう。
でも、それも今日で終わりだ。どんな結果になろうと、僕は確かめなければならない。
あの約束を果たすために。
「僕、高校を出て大学生になったら一人暮らしをしようと思うんだ」
「大学は遠いのか?」
「遠いってほどじゃないけど、少しは自立したいと思って」
「そうか」
「だからさ、君も一緒に来ない?」
首を動かして彼を見上げれば、彼は困ったような表情を浮かべた。
「言っただろう、俺はここから離れられないんだ」
「じゃあ動けるようになればいい」
「簡単に言うな」
「だって君が来てくれないと困る」
「もう子どもじゃないんだ。俺なんかいなくてもひとりで行けるだろう?」
諭す口調に、柔らかい笑顔。やっぱり子ども扱いされている。
立ち上がって彼と目線を合わせた。出会った頃は高校生の彼を見上げていたのに、今は同じ高さだ。それだけの時間が過ぎたのだ。
「君はいつまでこんな場所にいるつもり?」
「気が済むまでかな」
「どうすれば気が済むの?」
「さあ。それは俺にもわからない」
本当はわかっているのではないか。わかっていて、僕がここから巣立つ日を待っているのではないか。そうして、いずれひとりで消えていなくなってしまうのだ。
幽霊の事情なんて知らないけれど、彼はそういう人だった。
「君は嘘つきだね」
「嘘なんかついていない」
「ついてるよ。また僕に嘘をついた」
なんのことだと言うように彼が眉を寄せた。
あの頃もこんな風に聞きたいことをはっきり聞けたら、僕たちの未来は変わっていたのかもしれない。もっと早くお互いの本音を聞き出せていたら、ただの友達として手を取り合えたのかもしれない。
それは、三百年経っても消えない悔恨だ。
「僕は約束を守ったよ。ちゃんと君を見つけた。だから君にも約束を守ってもらわないと困るんだ、――ルルーシュ」
その名前を声にして初めて、僕はずっとそう呼びたかったのだと知った。
ルルーシュとずっと呼びたかった。もう一度呼びたかった。
彼は、ルルーシュは大きく目を瞠っていた。薄く開いた唇が戦慄き、信じられないものを見るように僕を凝視している。幽霊になっても相変わらずイレギュラーには弱いらしい。
「僕は枢木スザクだった。今も枢木スザクだけど、三百年前も枢木スザクだった。全部思い出したよ」
「なんで……」
「君はいつもどこを見ているんだろうってずっと気になっていたんだ。だから調べてみた。そしたら、それをきっかけに思い出したんだ」
ルルーシュが見つめていた先は、僕が彼を殺した場所だった。
あの場所は世界平和の始まりの地として大事にされ、植樹をしていくうちに平和の森と呼ばれるようになった。
そして今、僕たちが立っているのは、かつてアッシュフォード学園のクラブハウスがあった場所だ。
双方の距離は離れているけれど、ここの桜が平和の森よりも高い位置にあるから眺めることができたのだ。当時、この一帯は平野だったから、三百年前では叶わなかったことである。フレイヤでトウキョウ租界の地形が変わったからこそ可能となった眺めだ。
「ねえ、なんでルルーシュはここにいたの」
最初に彼にした質問を再び尋ねる。茫然自失の状態だったルルーシュは、すぐに気を取り直した様子だった。切り替えの早さも相変わらずである。
「……待っていたんだ、お前を」
「日本に生まれ変わるかどうかもわからないのに?」
「仕方ないだろ、ここから動けないんだから」
「え、動けないって本当だったの? てっきり口からでまかせを言っているのかと」
「お前、俺をなんだと思っているんだ」
ぎろりと睨まれ、ああ、僕の知っているルルーシュだと感じた。
「なんでここにいるかなんて俺が知るか。気付いたらここにいただけだ。そしたらお前の言葉を思い出したから、本当に俺を見つけられるかどうか試してやろうと思った」
「まさか三百年も待っていたの?」
「わからない。時間の感覚がないんだ。ただ、ここでお前を待とうと思ってからは六年ぐらいしか経っていなかったはずだ」
六年ということは、僕が生まれてからルルーシュに出会うまでの時間だ。それは何かの偶然なのだろうか。
「どうして名前を教えてくれなかったの」
「当たり前だが、お前は過去のことを忘れていたからだ。変に刺激して思い出させるのが嫌だったんだ」
「どうして?」
「どうしてって……、過去を、しかもあんな前世を思い出したい人間なんていないだろう」
「僕はルルーシュのことを忘れているほうが嫌だった」
「お前は罪を償ってこうしてまたこの世界に生まれ変わったんだ。三百年も前の自分に囚われる必要はない。俺のことだって本当は忘れたままでいてほしかった」
「だから約束を破ろうとしたの? 僕が君を見つけたら一緒にいてくれるって言ったじゃないか」
「それは俺も人間だった場合の話だ。俺は幽霊なんだぞ。生きていないし、いつ消えるかもわからないのに、お前と一緒にいられるわけがない」
「僕は一緒にいてほしいよ」
「無理だ」
「だから、無理かどうかは試してみなければわからないじゃないか。やる前に諦めるのはルルーシュらしくない」
しつこく食い下がれば、ルルーシュがまた困った顔をした。聞き分けのない子どもを相手にするような顔だ。
「――本当のことを言うと、俺がここにいる理由はなんとなくわかっている」
「どんな理由?」
「あえて挙げるならば、未練だ」
小さく呟いて、ルルーシュは視線を落とした。
「満足して死んだはずだった。後悔も未練も何もなかった。そのはずだったのに、ほんの少しだけ思ってしまったんだ。もう一度だけ、三人で普通の日常を過ごしてみたかったと」
恐らくそれは、紛れもないルルーシュの本心だったに違いない。
僕はそっと嘆息し、辺りを見回した。ここにクラブハウスがあった。ナナリーとルルーシュと僕の三人で過ごした日々が鮮やかに蘇り、懐かしさと寂寥を覚えた。
お互いの正体を知らず、嘘を重ね、いつ壊れるかも知れない仮初めの穏やかな時間。だけど、それでも僕は幸せだった。嘘にまみれた時間は、再会した僕たちが唯一穏やかに過ごせた時間でもあったから。
ルルーシュがこの場所に囚われた理由が未練ならば、僕はその未練に感謝すべきなのだろう。
「その未練、今は?」
「お前とは会えたからもうないな」
「ナナリーは?」
「ナナリーは俺なんかと関係ない場所に生まれ変わっているさ。あの子は強いから」
「それだと僕が弱いみたいなんだけど」
「だって事実だろう?」
くすくすと笑うルルーシュに肩を竦める。
確かに間違ってはいない。ナナリーは強かった。僕なんかよりずっと。
「じゃあさ、約束通り一緒に行こうよ」
僕の声にルルーシュが表情が強張った。
「言っただろう、俺はお前と一緒には行けない」
「なんで? この場所にもう未練はないんだろう? だったら僕と一緒に行こう。この場所から動ける方法を探して、一緒に行こうよ」
「駄目なんだ」
その一言で僕は悟った。ルルーシュはまた僕の前からいなくなるつもりだと。
嫌だと首を振る。
「駄目なんだ、スザク」
「約束したじゃないか」
「スザク」
「僕はもう二度と君を失いたくない。君と一緒にいたい。幽霊でもなんでもいいから一緒にいてよ。だって、あのときも本当は――」
本当はずっと一緒にいたかった。
一緒に生きたかった。
ひとりではなく二人で生きたかった。
三百年前の想いが胸を締め付ける。言いたくて、でも言えなかった願い。
僕はルルーシュのいない明日ではなく、ルルーシュと共に生きる明日が欲しかった。
「また嘘をついてすまない。でも、駄目なんだ。お前が十八才の誕生日を迎えたら俺は消えることになっている。次の春まではいられない」
「何それ……、僕の誕生日ってなんだよ、そんなの知らないよ、やっと君のことを思い出したのになんで…!」
「これは俺の我儘だから。ここでずっとお前を待っていたもうひとつ理由は、お前の幸せだよ」
「僕の、幸せ?」
「お前がちゃんと幸せに生きているかを確かめたかった。苦しいことも悲しいこともなく、ごく普通の子どもとしてごく普通の幸せをちゃんと得られているかを確かめたくて、ずっとお前を待っていたんだ」
ルルーシュの手が伸びて優しく頭を撫でられる。僕がまだ小さな子どもの頃、こうやってよく頭を撫でてもらった。お前はいい子だなと何度も言われた。
優しくて、とても綺麗な幽霊が僕は大好きだった。
「お前と会えて嬉しかった」
視界が滲む。ルルーシュの笑顔を見ていられなくて、僕は顎を上げると斜めに視線を向けた。
そこには花を咲かせた桜があった。風が吹いて花弁が微かに揺れる。
この桜をルルーシュと見ることはもうないのかと思えば鼻の奥がつんとした。
「桜が綺麗だな」
「ルルーシュのほうが綺麗だよ」
「冗談を言うな」
「だって本当のことだから。ルルーシュのほうがずっと綺麗だ」
目線を戻すと、桜の花以上に染まった頬があった。
「顔、真っ赤」
「うるさい」
黙って手を差し出せば、躊躇った様子を見せつつも掌を乗せてくれた。重なった手を大切に握り締める。
幽霊なのに体温のある手がずっと不思議だった。冷たければ彼はもう死んだ人間なのだと嫌でも思い知らされるのに、こんなに温かかったら勘違いしてしまいそうだ。
「僕はルルーシュが好きだったよ」
手の中の指先がぴくりと動いた。
「三百年前も生まれ変わってからも、君のことが好きだった。そして、これからも好きだ」
「スザク……」
「そんなものは忘れろなんて言わないでね。これは僕の気持ちなんだから、たとえ君であろうと文句は言わせない」
「――そうだな」
繋がれた手を見つめてルルーシュが微かに笑う。
『ずっとお前を見ている』
いつかルルーシュの言っていた言葉を思い出した。あれは本当だったのだ。
三百年前の僕と、今の僕。ルルーシュはこの場所でずっと僕を見てくれていたのだ。
「ありがとう」
「どうした、急に」
「言いたかったから」
「なんだそれは」
ありがとうをもう一度言えば、礼を言われるようなことはしていないぞとルルーシュは可笑しそうに肩を揺らした。
ふいに、濡れた頬を指で拭われる。唇を寄せたルルーシュは、何も言わずに僕の涙の跡を舐め取った。
好きな人からこんなことをされて普通ならもっとドキドキしたり、いけないことをしている気分になるはずなのに、不思議と心は穏やかだった。
僕は瞼を下ろし、ルルーシュの気配を感じながら春の匂いを吸い込んだ。
雪のように降り積もった想いはいつの日か溶けて消えてしまうのだろうか。時の流れと共にどこかへ忘れ去ってしまうのだろうか。
(でも、この気持ちは三百年忘れなかった)
三百年前の想いは今も鮮やかに残り、新しく抱いた想いは静かに積み重なっていく。五百年経っても、千年経っても、ルルーシュを想う気持ちだけはずっと残るに違いない。
そう伝えたらロマンチストだと笑われるか、夢を見すぎだと呆れられるか。一体どちらの反応が返ってくるのか確かめてみたくて、僕は目を開けるとルルーシュに笑いかけた。
「ねえ、ルルーシュ」
ルルーシュの綺麗な顔がすぐ傍にあって、そのことが泣きたくなるほど嬉しかった。
***
ボストンバッグをひとつ抱えて通い慣れた道を歩く。小学生のときからずっと通っていた通学路なので、明日からここを通ることはもうないのかと思うと少し寂しい気がした。
今年も満開の花を咲かせている桜の樹まで辿り着くと、そこで足を止めた。
幽霊だったルルーシュとの最後の春から一年。僕は第一志望の大学に合格し、晴れて一人暮らしを始めることとなった。
一人暮らしと言っても実家からはほんの数駅しか離れておらず、お腹が空いたら帰ってくるのよと子どものようなことを母親から言われた。もうすぐ成人を迎えるのに、いつまで経っても子ども扱いされるのは心外である。
(そういえば、ルルーシュからもずっと子ども扱いされたっけ)
記憶が戻っていない間はまだいい。でも、前世の記憶を取り戻したあとまで小さな子どものように接してくるのは正直不満だった。元々は同い年なのだから照れくさいなんてものではない。
甘やかしたいんだから仕方ないだろう、なんて言われた日には恥ずかしすぎてルルーシュの顔をまともに見られなかった。
そんな思い出も今となっては懐かしく、随分と昔のことのように感じられる。
「いってきます。休みのときには帰ってくるからね」
ルルーシュが消えてからも、彼の代わりのように桜の樹に語りかけていた。ルルーシュがいたときと違い、僕の姿は周囲にはっきり見えているので、不審者に思われないよう普段は心の中で。
でも、今日は人影がなかったので声に出してみた。
するとルルーシュの不在を余計に実感してしまい、これから旅立ちだと言うのに足が動かなくなってしまった。馬鹿だな僕は、と自嘲する。
(やっぱり君がいないと寂しいよ)
最後の日は笑顔で別れた。明日から俺はここにいないんだと伝えられたときも泣くのを必死に我慢した。でも、寂しいものはやはり寂しい。
こんなことなら思い出さなければ良かったと後悔が浮かぶけれど、ルルーシュを思い出さないままなのは嫌だと思ってすぐに打ち消す。この一年はそんな繰り返しだった。
ルルーシュの嘘つき。八つ当たりのようなことを思う。
人間のときも幽霊になってからも彼は変わらなかった。優しくて、嘘つきだった。
嘘つき。
小さく呟いたとき、誰かの靴音が近付いて来るのに気付いた。目元を擦り、ボストンバッグを抱え直す。
もう行こうと思うのに、どうしても最初の一歩が踏み出せなかった。
「駅に行かなくていいのか」
そのとき、背後から声が聞こえた。
「のんびりしていたら日が暮れるぞ」
よく知っている声に息を呑む。
そんなはずはない。きっと幻聴だ。ルルーシュのことを考えすぎて耳がおかしくなったのだ。だから、振り向いたって誰もいない。
呼吸を止めたまま、僕は恐る恐る顔を向けた。
「ルルー、シュ?」
そこには一年ぶりに見るルルーシュの姿があった。
気のせいだろうか。別れたときよりも少し顔が大人びて見えた。
「僕、また夢を見ているのかな……」
「残念ながら現実だ」
「じゃあ、幽霊……?」
「体は透けていないと思うが」
どういうことだと混乱する。何が起こったのかわからなくて頭の中はパニックだ。
ひとつだけわかっているのは、今度こそルルーシュを離してはいけないということで、ボストンバッグを放り投げるとルルーシュに駆け寄った。僕の勢いに傾いだ体を掴まえ、思い切り抱き締める。
「ルルーシュ、会いたかった、ずっと会いたかった…っ」
「わかった、わかったから泣くな」
「泣いてないよ」
肩に顔を埋めて泣いてないを繰り返せば、はいはいと背中を撫でられた。まだ子ども扱いしているのかと思ったけれど、今は文句を言うこともできなかった。
どのくらいそうしていたか、ようやく呼吸が落ち着いて腕の力を緩める。
「君、幽霊じゃなかったの?」
「正確に言うと、幽霊ではなく俺の未練という意識が形になったもので、体はちゃんと現世にあったんだ。その未練が消えてなくなったときに、自分が誰だったかをようやく思い出した」
「幽霊って嘘をついてたってこと?」
「嘘じゃない。あのときの俺は確かに自分を幽霊だと思っていたんだ」
「なんだか全然わからないけど、幽霊じゃないってことはもう僕の前からいなくならないってこと? いきなり消えちゃうこともない?」
「ああ。だから、今度はちゃんと約束を守ろうと思う」
「約束?」
細い腕が背に回り、ルルーシュのほうから抱き締められた。
「スザクさえ嫌でなければ、一緒にいさせてくれないか」
寂しくて寂しくてたまらなかった心が、あっという間に嬉しさで満たされる。
何がどうなっているのかはちっとも理解できないし、あとで詳しく解説してもらわなければさっぱりだ。
でも、ルルーシュがここにいてくれるということだけは理解した。
「僕が嫌だなんて言うわけないだろ」
「そうか……、良かった」
安堵の呟きが涙に濡れているように感じられたのは僕の気のせいだろうか。
ルルーシュの髪に鼻先を埋める。さらさらとした毛先が頬に当たってくすぐったい。
「二度とお前の前には現れないつもりだった。でも、お前が俺のことを好きだなんて言うから欲が出た。あんなに拒絶したのに、やっぱりお前と一緒にいたいと都合の良いことを願ってしまった」
くぐもった声が聞こえる。我儘を押し通しに来たことを後悔しているような声だった。
「一年考えた。本当にお前といていいのか一年考えて、お前が高校を卒業するときには答えを伝えようと決めた。もうお前に嘘はつきたくなかったし、それに、俺だってお前のことが好きだったんだ、ずっと」
初めてのルルーシュからの告白に、僕はやはり夢を見ているのではないかと疑った。現実であることを確かめたくて腕に力を込める。ルルーシュの体の感触が消えることはなかった。
「そんな欲ならいくらでも押し通せばいいよ。だって僕は君が好きなんだから、嬉しいに決まってるじゃないか」
腕の中に温もりと心音を感じる。幽霊だった頃のルルーシュも温かかったけれど、心臓の音は聞こえなかった。
確かに彼は生きているのだと実感して、たまらない気持ちが込み上げた。
「――桜」
「ん?」
「今年の桜もお前と一緒に見られたな」
「うん、そうだね」
桜を見上げた横顔に笑みを零し、赤く色付いた唇に誘われるまま触れた。ルルーシュは驚いて目を丸くしたけれど、拒絶はされなかった。
紫の瞳が瞼に隠れ、互いの吐息を感じ合う。
次の春まではいられないと言われたときは絶望しかなかったのに、こうしてまた二人で桜を見ることができてたまらなく幸せだった。
桜だけではない。夏の向日葵も、秋の紅葉も、冬の雪も、これからずっと一緒に見られる。
『そしたら今度はお前とずっと一緒にいるよ』
あの日の声が耳の奥で蘇り、僕はルルーシュの体を掻き抱いた。
三百と十八年もの永い永い時間をかけて、僕たちはようやく新しい季節を迎えることができたのだ。
(16.04.01)