「終わったー!」
大きく伸びをしたスザクは、それから電池が切れたように机に突っ伏した。
書類があちこちに散乱しているけれど、それを片付ける気力はない。気が抜けた途端、疲労と眠気と空腹がいっぺんに襲ってきた。
このまま寝てしまいたいという誘惑を打ち破ったのは、ぽんぽんと軽く頭を叩く感触だった。
「気持ちはわかるが、すぐに出ないと終電に乗り遅れるぞ」
「もうここに泊まるからいいよ……」
「馬鹿言うな。電車が動いている間に帰れるなんて奇跡なんだ、とにかく急ぐぞ」
肩を揺すられ、渋々起き上がった。顔を上げれば、ここ数日徹夜していたとは思えないくらい綺麗な顔があった。
ルルーシュもたまには自分の家のベッドで寝たいだろうしな。そう思い、急いで荷物をまとめる。携帯と財布と社員証と定期があればなんとかなるかと、適当に物を突っ込んだ鞄を持って立ち上がった。ルルーシュはドアの前で待っていて、スザクが来ると電気を消した。
「部屋の鍵を返してくるよ。ルルーシュは先に出ていて」
「俺も行く」
「いいって、僕の足のほうが速いんだから」
「悪かったな。俺だって別に足が遅いわけでは、」
「はいはい。ただでさえ体力が落ちているんだから、こういうときはまだ体力が残っているほうに任せてよ」
唇をむっとさせていたルルーシュだけど、ここで口論をする元気はさすがにないのか、「わかった。早く来いよ」と言うと玄関のほうへ向かった。
ルルーシュとは逆方向に駆けたスザクは、警備員に鍵を返すとすぐにまた走り出した。会社を出て一分のところに駅があるのはなんとも便利だ。階段を一段飛ばしながら下りると、ちょうど改札の前にいたルルーシュに追いついた。
「ね、早かったでしょう?」
息を乱すことなく笑いかければ、ルルーシュが呆れた顔をした。
「よくそんな元気があるな」
「一応、体力だけは取り得ですから」
ホームに下りると、自分たちと同じようにこれから帰る人たちが大勢いた。深夜とは思えない混雑ぶりだ。
「皆、よく頑張るよな」
「僕たちもね」
ほどなく終電一本前の電車が到着した。車内は満員で、これに乗るのかと思うとそれだけでうんざりする。が、これに乗らなければ帰れないので気合いを入れて乗り込んだ。
「ルルーシュ、大丈夫?」
「ああ、なんとか……」
そう言いつつも、顔はぐったりしていた。先週からほとんど毎日泊り込みで、家に帰ったのは一日か二日、しかも始発電車という有様だ。シャワーを浴びて二
時間ほど仮眠したらまた会社という生活に、だったら泊まったほうが楽だと悟ってほとんどの者は宿泊グッズを持ち込むようになった。
だけど、そんな生活ももうすぐ終わる。明日は久しぶりの休日でゆっくりできるし、来週はここまで追い込まれることもないだろう。
(それにしても眠い)
心地良いリズムで揺れる車内は仕事帰りや飲み会帰りの人々が渾然一体としている状態だ。隣のルルーシュも立ったままうつらうつらしていた。
倒れそう、とスザクは慌てて腰を抱いた。ただでさえ細い腰は見た目以上に細くて、ぎょっとすると同時に胸が鳴る。服越しとは言え、ルルーシュの体の感触を手のひらで感じているのだと思ったら心臓が鼓動を早めた。
(これは不可抗力、不可抗力だから)
ぶつぶつと念仏のように心の中で自分に言い聞かせる。
ルルーシュは同期で、プライベートでも会うくらい仲のいい友達で、それ以上でもそれ以下でもない。誰もが見惚れるくらい綺麗な顔をしているが、彼はれっ
きとした男である。男が男相手に胸を高鳴らせるなんておかしいだろう。きっと徹夜明けでテンションがおかしいのだ。だからこれは気のせいだ、と自分自身に
念じる。実は密かに想いを寄せていることを思い出してはいけない。
ぎゅうぎゅうだった車内は、駅を通り過ぎるたびに人が減っていった。座りたいという気持ちが通じたのか、自分たちの前の席がちょうど空く。ルルーシュを座らせると、その隣にスザクも腰を下ろした。
疲れたと何度目になるかわからない言葉を胸の中で吐き出し、なんとなく周囲を窺う。座っている乗客のほとんどは寝ていて、皆も疲れているんだなとぼんやり思った。
ふと、肩に重みを感じて首を向ける。スザクに寄りかかってルルーシュが気持ち良さそうに眠っていた。帰るときは元気そうだったけれど、やはり相当疲れていたのだろう。
あと二つでスザクの最寄駅だが、ここでルルーシュを起こすのは忍びない。アナウンスが入り、もうすぐ駅に着くことを知らされる。やがて電車が止まり、乗客が降りていったけれど、スザクは身じろぎすることなく肩を貸し続けていた。
また電車が動き始める。ルルーシュが降りる駅はさらに三駅行ったところだが、この様子ではしばらく目を覚ましそうにない。もう少し寝かせてあげたいけれど、今は心を鬼にしなければいけないとその体を揺すった。
「ルルーシュ、もうすぐ着くよ」
「ん……」
今のすごく色っぽい、と思ってしまったのはきっと疲れのせいだ。ぶんぶんと首を振り、もう一度肩を揺らす。
「ここで寝過ごしたら家に帰れなくなっちゃうよ」
「んん……わかってる……」
瞼が重そうに上がり、ぼんやりとどこかを見ていた。電車がスピードを落とし、次の駅に到着した。
ふらふらと立ったルルーシュの腕を掴み、ホームに降り立つ。そこで放心したようにしばらく突っ立っていた彼は、何かに気付いたのか、きょろきょろと辺りを見回すと最後にスザクへ視線を向けた。どうやらかなり寝惚けているらしい。
「駅……?」
「うん、駅」
「なんでスザクがここにいるんだ……?」
「あー……、寝過ごしたのかな、僕。タクシー拾うから気にしないで」
ルルーシュに肩を貸していたからとは言えず、笑って誤魔化した。ここから自宅までならタクシー代もそれほどかからないだろう。
気付けばホームには自分たち二人しかいなかった。
「相当疲れているみたいだから早く帰ろう。ルルーシュ?」
ルルーシュはなぜか深刻そうな顔で地面に視線を落としていた。首を傾げて近付けば、まだ眠気を残した瞳がスザクを捉えた。
いろんなルルーシュの表情を見てきたけれど、これは初めての顔だ。眠くて眠くてたまらないとぐずる子どもみたいな様子で、でもしっかりとスザクを見つめている。
「――だったら、うちに来ればいい」
「え?」
「少し狭いが、二人で寝られないことはない」
「へ?」
「それとも、俺と同じベッドじゃ嫌か……?」
上目遣いに尋ねられ、スザクの思考は止まった。
そこに疚しい意味がないことはわかっている。充分わかっている。だが、疲れ果てている頭は都合良く解釈してしまいそうだ。
「あ……っと、その、泊めてもらうのは嬉しいんだけど、ルルーシュも疲れているだろう? 僕がお邪魔したらゆっくり寝られないだろうし、今日はちゃんと家に帰るよ」
「やっぱり嫌なんだな……」
「そうじゃなくて」
「スザクは俺が嫌いなんだ」
「いやだから、違うって」
ルルーシュも頭が上手く回っていないのか、常にはない駄々の捏ね方である。会社では絶対に見せない顔にくらりとしそうだ。
同性で同い年の同期で、仕事に疲れてこんなにふらふらになっている相手にたまらない可愛さを感じてしまう。
(今すぐ抱いちゃいたい)
無意識に浮かんだ不埒な考えに、いやいやいやと慌てて首を振った。肉体が極限まで疲れ果てたら性欲なんてなくなるかと思っていたのに、どうやらルルーシュが相手だと一般常識は当てはまらないようだ。
しかし、良識ある大人が欲求のまま行動するわけにはいかない。
「ルルーシュ、まだ寝惚けてるだろ? 明日は休みだし、僕のことは気にしなくていいから早く帰って、」
「俺は、お前のことが嫌いじゃない」
「え……?」
「嫌いじゃない」
自分を見つめる紫の瞳は少し潤んで見えた。
これはどう捉えればいいのだろう。相手は半分寝ているようなものなのに、今の言葉を都合良く受け取っていいのだろうか。だいたい、嫌いじゃないという言
葉も、友達として嫌いじゃないという意味でしかないのではないか。期待して家まで行って、ガッカリするのがオチなのではないか。そう思うのに、もしかした
らという思いが消えない。
スザクは無意識に喉を鳴らした。
「あのさ、今ここでそんなことを言われたら、僕、勘違いしちゃいそうになるんだけど」
「――勘違い、すればいい」
「それ、本気で言ってる?」
少し躊躇ったルルーシュが小さく小さく頷いた。
「だって、俺はスザクのことが」
その唇が「好き」と紡いだのと、電車がやって来たのは同時だった。
息を呑んだスザクは、ルルーシュの手首を掴むと足早に階段へと向かった。
「スザク…っ」
「今の、あとでもう一回聞かせて」
「え、」
「電車のせいでよく聞こえなかったからもう一回お願い。僕もちゃんと返事したいから、お願い」
頬を微かに染めたルルーシュに笑いかけ、乗客が降りてくる前に駅を抜け出す。男同士で手を繋いでいる姿を見られたらまずいなと頭の片隅で思うけれど、この時間に帰っている人間の半分ぐらいは酔っ払いだから別にいいかと開き直る。自分たちも酔っていることにしてしまえ。
どうしてルルーシュがこのタイミングであんなことを言い出したのかはわからない。深夜のテンションでうっかり口を滑らせてしまったのか、勇気を振り絞って誘いをかけてみたのか、何をきっかけに決意したのかもわからない。
ただ、ひとつだけわかっているのは、友達の先の関係をお互いが望んでいるということだ。
(今日も徹夜になるかも)
そんなことを言ったら、意味を悟ってルルーシュは怒るだろうか。真っ赤になって盛大に恥ずかしがるだろうか。
いずれにしろ、拒絶はされないはずである。それは予感であり、確信だ。
あのとき終電のひとつ前に間に合わなければ。あのときルルーシュに肩を貸さなければ。あのとき自分の駅で降りることを諦めなければ。
何かひとつが欠けていたら奇跡のような幸運は舞い込んでこなかったかもしれない。
ルルーシュの手のひらに自分の手のひらを重ね、おもむろに指を絡めた。躊躇する様子を見せながらも控え目に握り返される。
(残業も悪いものじゃないな)
現金な自分に笑って、握る手に力を込めた。
結局、スザクの帰宅が翌々日の日曜日まで延び、その上、ワイシャツもズボンも皺だらけでクリーニングに出さなければ仕事に着ていけない代物になっていたことはまた別の話である。
(15.08.19)