失礼しますと断わってから部屋に入った瞬間、スザクは思わず笑みを漏らした。
「そのようなお行儀の悪いことをしているとコーネリア様から叱責されますよ」
スザクの小言に、大きく伸びをしていた主は振り返って眉を寄せた。
「姉上たちはもう帰ったんだ。お前まで堅苦しいことを言うな」
躾に厳しい兄と姉を持つと苦労する。そんな愚痴をこぼす姿はどこにでもいる十七歳と変わらなかった。
「そういうわけにはいきません。主に苦言を呈するのも従者の役目ですから」
「ふん。そう言いながら、お前だって兄上や姉上とのお茶会の席は気疲れするくせに」
図星を指され一瞬言葉に詰まる。反論がないことに気を良くしたのか、主がにやりと笑った。
「お前は兄上と姉上が苦手だからな」
「冗談でもやめてください、ルルーシュ殿下」
ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。苦笑いして呼んだその名こそが、スザクの仕える主の名である。
神聖ブリタニア帝国の第十一皇子にして皇位継承権第十七位。まだ公の場には出ていないのでその顔を知るのは皇族と貴族、一部の軍人だけだが、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアという名前は国内に広く知られていた。
姿を現さないルルーシュに纏わる噂は多い。曰く、母であるマリアンヌ皇妃に勝るとも劣らない美貌だとか。皇子の中では最年少でありながらその頭脳と手腕は父親や帝国宰相シュナイゼルも認めているとか。十八になった歳にはどこかのエリアの総督に抜擢されるとか、皇宮の要職に就くとか、話のネタに尽きない人物だ。
ルルーシュに好意的な噂が多いのは、母マリアンヌが庶民出身の皇妃として人気が高いおかげもあった。ともかく、この国で今もっとも顔見せを待望されている皇族がルルーシュであることに間違いはない。
実際、ルルーシュは噂通り、いや噂以上の人である。母親の身分が低いこともあり、皇族や貴族の中には子供っぽい陰口を叩く人間もいる。しかし、ルルーシュは馬鹿らしいと言ってまったく意に介さず、兄や姉に学びながら大いに才能を伸ばしている。そんな彼の護衛としてすぐ傍で仕えることが出来るのは、自分の人生にとって何よりの幸運だとスザクは常々思っていた。
(それに――)
ルルーシュはスザクと同じ男であるが、とても同じとは思えないほど美しい。もともと皇族には美男美女が多く、誰もが優雅で気品溢れる雰囲気を持っている。だけど、数多くいる現皇帝の子供たちの中でもルルーシュの美しさは群を抜いていた。従者の贔屓目かもしれないが、ルルーシュの美しさに匹敵する人間はブリタニア中を探してもいないだろう。
「冗談?まさか。ここは俺の部屋だ、気にせず好きなことを言えばいい」
そのルルーシュが目の前で悠然と微笑む。天使とも悪魔とも呼べる笑みに誘われたら誰だって秘密を打ち明けずにはいられない。つい漏らしそうになる本音を抑えて、スザクは慎重に言葉を選んだ。
「自分が未熟者だから、コーネリア様もクロヴィス様もお認めになることが出来ないのですよ」
「ふん、二人とも生粋のブリタニア人しか受け入れないだけだ」
苦々しそうに言い放ったルルーシュは眉をひそめた。
「いくらスザクが日本国籍を捨てていないからといって、祖父の代からブリタニアに住んでいることに変わりはない。しかも特例として代々騎士侯を授けられているにもかかわらず、いまだ名誉だからと言って差別しているんだ」
「仕方ありません。そういう道を選んだのは自分なのですから」
だから貴方が気にすることはない。そんな意味を込めて主を見れば、しばらく眉間に皺を寄せていたルルーシュだったが、やがて小さく溜め息をついた。
「昔ならそんなことは言わず、姉上だろうと兄上だろうと食ってかかっていただろうに。人とは変わるものだな」
「昔、とは?」
ぼそりと呟かれた言葉の意味がわからず首を捻る。すると、何故だかぎろりと睨まれた。粗相をしてしまったかと内心焦るが、これまた思い当たる節はない。
「お前、本当に覚えていないのだな」
「殿下……?」
きょとんとすれば、ルルーシュが困ったような笑みを浮かべた。
「わかった。もういい、気にするな」
気にするなと言われても、何やら意味深な発言をされては気になってしまう。しかし、もういいと言われた以上、スザクにはこれ以上追求する術はなかった。これが皇族であるルルーシュとただの護衛であるスザクとの越えられない壁だった。
(もし僕が殿下の騎士なら……)
ふと思い付いた考えを慌てて否定する。夢見たことがないと言えば嘘になるけれど、自分なんかが抱いてはいけない夢なのだ。ルルーシュの護衛の任を与えられただけ幸運と思わなければならない。
「それより、スザク」
「はい」
「紅茶が飲みたい」
先ほど飲んだのではないですか、と問おうとした口を噤んだ。
ほんの三十分前まで、ルルーシュの異母兄弟姉妹であるコーネリアとクロヴィス、ユーフェミアの三人が訪ねてきていた。前々から計画されていたものではなく、突然決まったお茶会である。押し掛けてきた三人にげんなりとした様子のルルーシュだったが、本心では決して嫌がっていないことをスザクは知っている。幼い頃から遊ぶ機会の多かった彼らとルルーシュの仲は良好だ。
ちなみに、アリエスで開かれるお茶会にはときどき第二皇子のシュナイゼルも加わることがある。人の好き嫌いはあまり言わないルルーシュだが、次兄だけは苦手であることを隠さなかった。曰く、昔から子供扱いしてくるところがお気に召さないらしい。
スザクから見れば、あまり人に関心を示さないシュナイゼルが唯一ルルーシュには興味を持っているようで、子供扱いと言うよりルルーシュを試しているのではないかと思うことが多い。どちらにしろ、ルルーシュにとっては苦手な兄なのだ。
今日はそのシュナイゼルは欠席だったから、仲の良い兄弟たちと語らう時間は決して苦ではなかったはずである。しかし以前、家族以外の人間と接するときはやはり気を遣うと零していた。たとえ気心の知れた兄弟でも、一人でお茶を楽しむときとは違うのだろう。
だからこその「紅茶が飲みたい」という要望。いや、スザクにだけ命じる我儘だ。
「かしこまりました」
恭しく礼をしたスザクは、ルルーシュの自室を後にした。その口許に笑みを湛えて。
長い廊下には窓から陽の光がいっぱいに射し込み、きらきらと世界を美しく輝かせていた。こんな日は仕事なんかやめて一日中外で過ごしたい気分だ。帰り際のユーフェミアが名残惜しそうにしていたのもよくわかる。
いくつかの角を曲がり、離宮の一番奥まった場所に足を踏み入れた。途端に、空腹を刺激する良い匂いが鼻孔を擽った。扉が開くと匂いはさらに強くなる。それも当然で、スザクが顔を覗かせたのは厨房だった。
「あら、スザク様。こんなところにいらして、どうかなさいましたか?」
入れ違いで出てきた使用人がスザクに気付いて声をかけた。忙しそうにしているところを見ると、夕食の準備の真っ最中なのだろう。そんなときに邪魔をするのは申し訳ないが、ほかでもないルルーシュの命を実行しないわけにはいかなかった。
「ちょっとだけ厨房を借ります」
「それは構いませんが……ああ、紅茶をお淹れになるのですね」
説明する前にスザクの意図を悟ってくれたようで、彼女はほかの使用人に場所を空けるよう声をかけてくれた。
「忙しいのにすみません」
「何をおっしゃいますか。ルルーシュ殿下のためのお茶となれば私どもにとっては至上命令。ご協力するのは当然です」
胸を張る彼女にスザクは笑った。仕事の邪魔をされても嫌な顔ひとつせず、むしろルルーシュのためと積極的に協力してくれるのはありがたい。ほかの城の様子は詳しく知らないが、これほど使用人たちから慕われている皇族は少ないのではないだろうか。単なる贔屓目だと言われるに決まっているから、口に出して主張したことはないけれど。
「ありがとう。じゃあ殿下に気に入ってもらえるよう、僕も頑張って美味しい紅茶を淹れるようにするよ」
スザクがティーセットを準備し始めたのを見ると、傍にいた使用人たちはそっと離れた。
護衛であるスザクが、ルルーシュのために紅茶を淹れる。いつしか城中の人間が知るところとなったアリエスの恒例の風景だった。スザクに声をかけた使用人が驚くことなく、むしろ積極的に厨房へ案内したのもそういうわけがあった。
ルルーシュの護衛としてスザクが初めてアリエスに来たときから始まった習慣なので、かれこれ二年になる。
「紅茶が飲みたい」
今日と同じようにルルーシュから言われたとき、スザクは使用人を呼ぼうとした。
使用人が淹れたものを部屋まで運ばせる。それが当たり前の対応であり、スザクの判断も決して間違ってはいなかった。ただし、相手がルルーシュでなければ、という条件付きで。
「俺はお前が淹れたものを飲みたいんだ」
両手を組んだルルーシュに命じられ、スザクは大いに悩んだ。いわゆる良家の子息なのでテーブルマナーは知っている。お茶をたしなむのは上流階級の常識だと母親に言われたからそれなりに味もわかる。とはいえ、スザクが得意なのは主に剣や武術など身体を動かすことで、残念ながら紅茶の淹れ方は教わってこなかった。そもそも、お坊っちゃんは自らの手を煩わせるようなことはしない。
だから、お前が紅茶を淹れろと言われたとき、スザクは厨房のティーセットの前でしばらく固まっていた。冗談でも何でもなく、出来ることと言えばせいぜいお湯を沸かすことぐらいだ。
自分が淹れたら間違いなく不味いものになるだろうと予想した通り、スザクが人生で初めて淹れた紅茶を一口口に含んだルルーシュは思い切り眉を寄せた。
「……苦い」
「も、申し訳ございません!やはりほかの者に淹れ直させます!」
カップを下げようとしたところ、スザクの手が届くよりも先に残りの紅茶を飲み干されてしまった。「あっ」と思わず声を漏らせば、ルルーシュは相変わらず顔を顰めている。
「苦いし温い。俺が淹れたほうがよほどマシだ」
「本当に申し訳ありま、」
「練習しろ」
「……は?」
呆気に取られた声を出してしまい、申し訳ございませんと慌ててもう一度謝罪した。たった一言でも、皇族が相手となれば首を刎ねられるような取り返しのつかない失態となる。しかし、目の前のルルーシュはどこか楽しそうに笑っていた。
「俺が満足するようなお茶を出してみろ」
「しかし殿下」
「それともお前、そんな仕事は護衛のやることではないと思うか?絶対に嫌だと言うのなら無理強いはしないが」
「滅相もありません!ただ、自分などが淹れる紅茶はとてもお出し出来るものではなく……」
「だから練習しろと言っているんだ。別に一週間以内に完璧に仕上げろとか、美味しくなければ辞めさせるとか、そういう馬鹿げた条件は出さないから安心しろ。俺は気長に待つのが得意なんだ」
「でしたら……」
いまいち腑に落ちないスザクだったが、皇子殿下たっての希望となれば断わるわけにはいかない。
本当に自分でいいのだろうか、あるいは何かの悪戯だろうかと様々な可能性を考えてみたが、ルルーシュにからかっている様子はない。
どうやら本気らしいと判断し、これは大変なことになったと気付いて今度は冷や汗をかいた。気長に待つと言われても、毎回毎回不味いものを出されたら誰だって嫌になるだろう。だが、先ほどのやり取りから、どんなに不味くてもルルーシュはすべて飲み干しそうなのだ。皇子である彼に無礼なことは出来ない。
そうしてスザクの特訓が始まったのが二年前。厨房の担当者に頼み込んで紅茶の淹れ方を学び、ルルーシュの好みも聞き出した。毎日の練習の成果で次第に人並みのものが出せるようになり、約束通りルルーシュを満足させることが出来た。今ではルルーシュの好みを完璧に把握した紅茶を淹れられる自信がある。努力の賜物とはまさにこのことだろう。
必要な道具と茶葉を用意し終えたスザクは、「よし」と呟いてからトレイを持ち上げた。
「お邪魔しました。ありがとうございます」
「今日もルルーシュ殿下に美味しいお茶を淹れて下さいな」
「はい」
貴重な場所を譲ってくれた使用人に礼を言うと、トレイを抱えたまま来た道を戻った。
厨房からルルーシュの私室までは距離がある。紅茶を淹れてから戻ると冷めてしまうし、「スザクの淹れた紅茶が飲みたい」という希望なのにほかの誰かに道具を持って来させるのも違う気がする。そう考えた結果が、必要なものをスザク自らが運んでルルーシュの目の前で淹れる、という方法だった。この方法はルルーシュもいたく気に入ってくれたようで、紅茶を準備する従者を見る目はとても優しかった。
やがてルルーシュのためにスザクが紅茶を淹れていることはアリエスの人々の知るところとなり、厨房でのやり取りのように好意的な使用人も増えた。
「失礼いたします」
部屋に戻ると、正面の机にルルーシュの姿はなかった。
「殿下?」
戻りが遅いので待ちくたびれてどこかへ行ってしまったのだろうか。いや、ルルーシュに限ってそんなことはと首を回し、ソファに目を留めたスザクは思わず微笑んだ。テーブルにティーセット一式をそっと置き、床に膝を付ける。
「殿下」
呼んでも応えはない。ルルーシュはソファへ横になり、夢の国の住人になっていた。すやすやと唇の隙間から洩れる吐息はとても気持ち良さそうだ。
「起きないと冷めてしまいますよ」
呼びかけてみるものの、本気でルルーシュを起こそうという気持ちはなかった。最近の彼は毎日忙しく、ゆっくり寝る暇もなかったことを知っているからだ。
一ヶ月ほど前、ルルーシュはシュナイゼルから突発的な仕事を任された。「無理なら引き受けなくてもいいよ」と帝国宰相ににっこり微笑まれ、「やるに決まっています」と堂々と答えていたが、通常の業務はまた別にこなす必要があった。そのため、昼にチェック出来なかった書類は夜中に片付けることとなり、明け方近くになってようやく執務室の灯りが消えることも珍しくなかった。
その案件も一昨日終わって、ようやく忙しい日々から解放されたばかりである。ルルーシュは知らないけれど、今日の兄弟たちによるお茶会は実はルルーシュの慰労会も兼ねていたのだ。
とはいえ、ここで熟睡してしまうと夜中に目が冴えて困ってしまうだろう。もうすぐ夕食の時間である。スザクは時計を確認し、隣の寝室から毛布を持ってくるとルルーシュの身体に掛けた。
「三十分だけですよ、殿下」
もぞりと動いたルルーシュは、まるで猫のようにソファの上で丸まった。狭い場所だというのに器用なことだ。睡眠は取れるときに取るという生活を続けているせいか、いつでもどこでもどんな無理な体勢でも寝られるというのが彼の特技である。非常に皇族らしくないところがルルーシュらしい。
起きる頃を見計らってまたお湯を沸かしてこようと一旦立ち上がりかけたスザクは、しかしわずかな逡巡の後、再び膝を付いた。
ご無礼をお許しください、と口の中で呟いて指を伸ばす。さらりとした黒髪に触れる。指先から愛おしさが広がるようだった。
「殿下……ルルーシュ殿下」
大切に名前を呼んだスザクは唇を寄せ、閉ざされた瞼に触れるか触れないかの位置で止まった。ソファに置いた手をきつく握り締める。ルルーシュの匂いを胸いっぱいに吸い込むと、顔を上げて勢いよく立ち上がった。
「申し訳ございません」
寝ているルルーシュに謝罪し、未練を断ち切るかのようにその場を離れた。意識してソファから目を離すと、椅子に掛けられていた上着を手に取る。整理整頓好きなルルーシュがそのまま放っておくとは珍しい。スザクの帰りを待ちながらちょっと横になったつもりが本気で寝入ってしまったのだろう。口許を緩め、上着を持ったままスザクはクローゼットへ向かった。
ルルーシュに見出され、彼に仕えるようになってから二年。その美しさももちろんだが、ルルーシュという人そのものにどんどん惹かれていく自分がいた。
身分違いであることは充分わかっている。気持ちを伝えるつもりは一切なかった。ただ、ルルーシュを守り、ルルーシュのためだけに生きていきたいと強く思うのだ。
ブリタニア皇族という立場は決して安住な身分ではない。特にルルーシュの母マリアンヌは庶民出身ということもあってほかの皇妃や貴族から疎まれ、その子供であるルルーシュや妹のナナリーも嫌がらせを受けた経験がある。そんな環境の中で生きていくのは決して容易なことではないだろう。
ルルーシュたちと仲の良い兄弟はいるけれど、彼らのパトロンである貴族連中が味方とは限らない。血の繋がりだけで信頼できるほど生易しい世界ではないのだ。
だからこそ、ルルーシュは兄のシュナイゼルに学び、自分自身で力をつけようと努めている。母や妹が庶民と蔑まれることがないよう、大事な家族のために確固たる地位を得ようとしている。無理なら引き受けなくてもいいと言われた仕事を寝る間も惜しんでこなしていたのにはそういう理由もあった。
一介の軍人であり、護衛でしかないスザクに出来ることと言えば限られるけれど、何らかの形でルルーシュの助けとなりたかった。
ルルーシュのために生き、ルルーシュのために死ぬ。それがスザクの生きる理由であり、願いでもある。
だから、もし世界がルルーシュを奪おうとすれば、スザクは世界を壊そうとするだろう。
ルルーシュを失う世界なら、そんなものは消えてなくなってしまえばいい。
それから半月の後、自分たちの身に降りかかる出来事も知らずに、二人は優しい時間の中にいた。
(11.03.21)
5月発行予定の本編(『たとえばあなたを失う世界』)に続きます。
※オフ本はすでに完売しています。