あめしずく

 朝からひどい雨の一日だった。
 ごうごうとした風の音と叩きつける雨の音。だけど宮殿の中はとても静かに感じられた。冷ややかでぴんと張り詰めていて、息をひそめずにはいられない空気。
 それは宮殿の中にあまり人がいないからだろうか。それとも、ここが悪逆皇帝の住み処だからだろうか。
 (いつも以上に警備を強化するようジェレミア卿に伝えているし、万が一に備えてルルーシュが万全のセキュリティを敷いているから問題ない。でも、嫌な夜だ)
 雨は足音と足跡と人の気配を隠してしまう。
 悪逆皇帝の敵は多い。多いどころか世界中が敵だろう。
 多少の情報操作はあるものの、実際に多く血を流しているし、むしろ積極的に恨まれるよう行動していた。それが計画なのだから今の状況は予定通りである。
 それでも、暗殺の危機に絶えず晒される生活は決して心安らかとは言えない。
 ナイトオブゼロに対する憎しみも強いが、自分はおまけのような存在だ。しかも公的にはすでに死亡している。だが、世界中の憎悪を一身に受けるルルーシュの心境はいかほどであろう。
 その気持ちを確かめたことはない。ゼロレクイエムを持ち出したのはルルーシュ本人であり、お互い納得の上で計画を進めている。今さら後悔することはないが、それでもたまに、彼は怖くないのだろうかと考えることがあった。
 終末を告げるような激しい雨に世界が閉じ込められている夜は特に。

「ルルーシュ、僕だ」

 来訪を告げれば扉が開いた。明るい部屋の中には皇帝服のルルーシュがいて、入れと短く促された。

「いくら宮殿の中が安全でも見張りを外すのは危険だって言っただろう」

 奥へと進みながら小言を言えば、軽やかな笑い声が返ってきた。

「お前は心配性だな」
「君が不用心すぎるんだ」
「安心しろ。部屋の周囲にはちゃんと兵が立っている」
「兵がいるのは知っているよ。でも、」
「それに部屋の前に見張りがいたらお前が素顔を晒せないだろう?」

 口を開きかけたスザクは、少し躊躇ってから言葉を飲み込んだ。
 ここにいるのはナイトオブゼロではなく亡霊である。ナイトオブゼロの死が大々的に知られている今、たとえギアス兵で情報漏洩の心配はないとは言え、素顔を見られるのは避けたい。だからルルーシュの部屋を訪れるのも深夜となるのだが、そのことと警備の問題はやはり別な気がする。
 こちらの思いを知ってか知らずか、ルルーシュは上機嫌そうにくるりと振り返った。

「で、昨日の復習はちゃんとできたか?」
「まあ一応は」
「お前の元々の能力は悪くない。アッシュフォードにいた頃だって、学校に通えなかった期間が長かったのと軍の呼び出しのせいで授業について行けなかっただけで、理解力がないわけではないんだ。応用力は少々劣るが自分の弱点を自覚して取り組めば問題ない」
「褒められているのか貶されているのか微妙なんだけど」
「褒めているんだ」

 それはどうも、と投げやり気味に言いながら椅子を引いて座る。
 世界征服を遂げた今、スザクがやることは必要な知識をひたすら頭に入れることであった。正直、勉強にあまり自信はない。ゼロレクイエム後にはシュナイゼルがいるから大丈夫だと言われても、すべて彼に丸投げとはいかないだろう。ゼロとしての判断を問われることだってあるし、予測外の出来事があれば自力で対処しなければならない。そこにマニュアルはなく、すべて己が考えて決めなければいけないのだ。
 (ルルーシュには頼れない)
 そう思ったとき、心の底がぞっと冷えたことには気付かないふりをした。

「真面目にやればお前はちゃんとできるんだ。女性への気遣いは自然とやれるんだからその能力を勉強のほうにも活かせ」
「気遣いと勉強は別物だろ。と言うか、女性へのって何それ」
「お前は甘え上手で年上の女性に人気があるとリヴァルに聞いたが」
「いつの間にそんな話を……。それを言うならルルーシュだって女性の扱いはお手の物じゃないか」
「だからあれは咲世子が勝手にやったんだ。俺の意志ではない」

 学生とゼロの二重生活の中で咲世子に影武者を頼んだところ、分刻みでデートの予定が埋まったことを持ち出せばルルーシュが眉根を寄せた。

「でも君のファンクラブがあったのは事実だろ。デートだって本当は満更でもなかったんじゃない?」
「俺の時間はすべてナナリーのために充てていた。それ以外は黒の騎士団の活動で忙しかったんだ。デートなんて無駄でしかない」
「ふうん、だけどデートはするんだ」
「一度した約束を違えたくなかっただけだ。なんなんだ、今さらデートなんてどうでもいいだろう」

 どうでもいいと口にしたルルーシュは本当にどうでもいいと思っているのだろう。ミレイとのデートを夢見ていたリヴァルや、なんとか彼女を作ろうと奮闘していた学園の男子たちが聞いたら憤慨しそうな科白である。
 (それも今さらか)
 デートとか彼女とか、今の自分たちには無関係な単語だ。普通の学生には当たり前のものをすべて切り捨てた。自分の時間をすべて注ぎ、大事にしていた妹でさえも。

「スザク?」

 どうかしたかと首を傾げるルルーシュに首を振る。
 突然学園生活での出来事を持ち出したのは、雨でどこか鬱々とした気持ちを振り払いたかったのだろうか。そのせいで現実を突き付けられるのは本末転倒だ。

「雑談は終わり。昨日の続きをしよう」
「ああ」

 端末の電源を入れれば画面に地図が表示された。ルルーシュお手製のテキストにより現在の世界情勢と今後の予測についての講義が始まる。
 皇帝としての仕事やゼロレクイエムに向けての準備などで忙しいのに、夜の数時間、こうしてルルーシュはスザクのための勉強会を毎日開いてくれた。疲れているのは明らかで、たまには休めばいいものを勉強会は一日も休むことなく続けられている。
 おそらく、今の彼は精神力だけで保っている。ゼロとの二重生活を続けていたくらいだから体力はあるのだろうが、それでも数時間の睡眠時間で足りるはずがない。だけど、ルルーシュは決して休もうとしない。
 時間が足りない。それがここ最近の彼の口癖だ。
 その時間のすべては自分が死ぬための準備だという現実をルルーシュはどう受け入れているのだろう。
 (またつまらないことを考えている)
 戦場で戦っているときとはまた次元の違う死への恐怖。同じ目的を持ちながら、当人でなければ理解のできない感覚。
 逆に、ルルーシュを殺すためだけに今この時間を生きているという感覚は、スザクにしかわからないものだった。
 殺す側と殺される側。ひとつの計画に向かって進んでいても、同じ感情を共有することはできないのだ。
 (結局、最後の最後まで僕たちはわかり合えないのかもしれない)
 だけど、ルルーシュの手を取ることはできた。ルルーシュも自分の手を握り返してくれた。自分たちはそれで充分なのだ。

「ルルーシュ、終わったけど次は――」

 振り返ったスザクはすぐに口を噤んだ。資料に目を通している間、少し休憩すると言ってソファのほうに移動したルルーシュは、本を膝の上に乗せたままうとうとしていた。

「無理するから……」

 まだシャワーも浴びていないのではないか、とソファに近付いて顔を覗き込む。
 目を閉じた姿は幼い。ここしばらくは悪逆皇帝の名に相応しい険しい表情ばかり見ていたから、こうしてあどけなく眠る姿はどこか感慨深くもあった。
 力の抜けた手から本が落ちる。慌てて拾い上げていると体のほうもぐらりと揺れたので、ルルーシュの肩に腕を回すと自分のほうに引き寄せた。
 (今日はもう自習にするか)
 一日の疲れが溜まっているだろうし、雨で気温が下がっているので温かい湯に浸かって体をほぐしたほうがいいのだろうが、せっかく眠ったところを起こすのは忍びない。もう少しだけ待って、本格的に眠りに落ちたようならベッドに運ぼう。
 (それにしても軽い)
 全体重を寄りかからせているはずなのに重みを感じない。

「また痩せただろ、ルルーシュ」

 返事は返ってこないことを承知で独り言を呟く。
 もともと華奢で身長の割に軽い体だったけれど、この数ヶ月でさらに痩せたようだ。
 無理をするなと言える状況ではないし、本当に時間が足りないことも知っている。だけど、少し休めと勧めるのが友達としては正しい判断なのだろう。

「これじゃあ僕が殺す前に死んじゃうよ」

 ぽつりと漏らした声が部屋に大きく響いた気がした。
 宮殿の奥深いこの場所に雨の音は聞こえない。それなのに、雨粒が自分の足元を濡らしてどんどん冷えていくみたいだ。
 回していた腕を外し、ルルーシュの左手を探り出して握り締めた。このぬくもりもあと少しで失われてしまう。次に触れたときにはひどく冷たい手かもしれない。
 死体はたくさん見てきた。銃で死んだ人も剣で死んだ人もたくさんいた。
 だけど、ルルーシュの亡骸は想像できなかった。その胸を貫くことはもう決まっているのに、彼の白い衣装が血に染まる姿はどうしても思い浮かばなかった。
 (だって、君はまだ生きている)
 息をしている。心臓が動いている。目を開ければ瞳に自分の姿を映してくれる。名前を呼んで、笑いかけてくれる。
 死んだあとの姿をどうして想像できよう。
 (君はまだ生きているのに)
 でも、考えなければいけないのはルルーシュが死んだあとのことばかりだ。そこにルルーシュはいない。いてはいけない。
 握り締めた手に力を込める。
 穏やかに眠る顔を窺い、頬にかかった黒髪を耳にかけてやった。青白い肌に手を伸ばせばさらりとした感触がした。
 静かな寝息を確かめるように顔を近付け、赤く色付いた唇にそっと触れた。柔らかくて、温かくて、ひどく泣きたいような気持ちになった。
 どうしてキスをしたのか。キスをしたいと思ったのか。このときの自分の気持ちはそれから何年経っても理解することができなかった。
 ルルーシュのことを好きだったと言うのはとても容易い。でも、好きとか嫌いとか、自分たちの間にあったのはきっとそんな単純なものではない。あまりにたくさんの感情がありすぎて、言葉では何ひとつ言い表せない。
 ただひとつ確かなのは、それが最初で最後のキスだったということだけだ。

***

 目を開けて最初に飛び込んできたのは深い翠だった。
 新緑よりは少し濃い。でも暗すぎることもない。彼にぴったりの色だと思うのは、その瞳の色が彼のものだからなのだろう。

「起きた?」
「起きた」

 雨音に混じって聞こえた声にぼんやり答える。学校から帰ったあと、少しだけソファで横になっていたのだが、どうやら眠ってしまったらしい。
 外は雨が降っていた。

「じゃあ成功だね」

 何がだと視線だけで問えば、彼がにこりと嬉しそうに笑った。

「眠っているお姫様を起こすのは王子様のキスが定番だろう?」

 なんとなく先が読めて、それでも黙って続きを待つ。

「だから僕がキスしたらルルーシュは起きるかなって」
「馬鹿か」

 本気にしろ本気じゃないにしろ、こんなことを言い出す時点で相当馬鹿だ。呆れた顔をしてみせるけれど、彼は少しも気にした様子はなく、むしろさらに上機嫌になったようだ。

「ねえ、もう一回キスしていい?」
「聞かなくてもしたくせに」

 そっと瞼を下ろした。キスをしてもいいの合図に空気が動く。軽く触れた唇に密やかな吐息を漏らした。
 ただ触れているだけなのに気持ちいい。そんな風に思っていることを彼は知らないだろう。
 深く合わさり舌を絡ませ互いの唾液が混じるような激しいキスも、相手の存在を確かめるような優しいキスも、どちらも好きでたまらない。
 彼がここにいる。それを知ることができるだけで幸せだ。
 下唇を食まれ、無意識に薄く口を開いた。啄むようなキスが心地良かった。
 ふいに、頬に何かが落ちたのに気付く。
 ぽつりぽつりと降ってくるそれはまるで雨雫みたいで、なんだろうと目を開いた。そしてぎょっとすると、キスをしていたのも忘れて彼の肩を押した。

「どうしたの?」
「それは俺のセリフだ。どこか痛むのか?」
「え?」
「泣くぐらい痛いのか?」

 翠の瞳からぼろぼろと涙が零れていた。でも彼は自分が泣いていることに気付いていない様子で、それがひどく痛々しかった。
 両手を広げて首の後ろにしがみ付く。そのまま抱き寄せれば彼の重みを感じた。

「泣くな、スザク」

 どこにも行かないから。
 その言葉を囁いたのが自分であるとすぐには信じられなくて、でも今の彼に伝えるのはそれが一番正しい気がして回した腕に力を込めた。

「どこにも行かないで」
「ああ」
「ずっと傍にいて、ルルーシュ」

 ルルーシュ、と名前を呼ばれることが何よりの愛の言葉に思えた。

「ずっとお前の傍にいる」

 静かに囁けばまた唇が触れた。優しくて、温かくて、生きている感触がした。

「スザク」

 キスの合間に呼べば背中をかき抱かれた。お互いの鼓動が服越しに伝わって、とても安心するその音に涙が一粒零れ落ちた。
 雨の音はもう聞こえなかった。
 (14.05.24)