秋の虹

 たまには帰って来るのよ、という母親の声に「はーい」と返して玄関のドアを閉めた。外は思いのほか寒く、マフラーの中に顔を埋める。
 十一月に入り、気温がぐっと下がった。つい先日まで暑い暑いと言っていたのに、気付けば冬の気配がしていた。そろそろ鍋の季節だなぁと思いながら鞄を肩に掛け直す。
 夏休みの間、一度も実家に戻らなかったため、母から召集の電話が掛かってきたのは一週間前のことだ。バイトがあるんだけどと渋れば、アルバイトが終わった足でそのまま来ればいいでしょと言い返された。
 とにかく一度帰って来なさいと命じられ、どうしたものかと通話の切れた携帯を睨むように見ていた僕に、帰ればいいだろと素っ気なく言ったのはルルーシュだった。

「ひとり息子が家からいなくなったら誰だって寂しがる。ちゃんと親孝行しろ」
「そうだけど、家に帰るってことはルルーシュに会えないってことじゃないか」
「俺とは毎週顔を合わせているんだからたまにはいいだろ」
「何それ、僕にはもう飽きたってこと?」

 酷いルルーシュ! と冗談っぽくなじれば、馬鹿かと呆れられた。

「だいたい、なんで夏休み中に帰らなかったんだ。実家のほうがお前だって色々と楽だろう? ここからそう離れているわけでもないんだし、夕飯ぐらい食べに帰ればいいじゃないか」
「だって……、ルルーシュと一緒にいたかったから」

 拗ねたように言うと、ルルーシュは不思議そうに首を傾げた。

「もしかして、俺が毎日来ていたから遠慮して帰らなかったのか? それはすまないことをした。でも、一言言ってくれれば――」
「だから違うって」

 どうしてこの会話の流れでそういう方向に行くのだろう。僕、ちゃんと告白したよね? と何度も不安になるのはルルーシュのこういう鈍いところも原因だ。

「ルルーシュと過ごしたかったからに決まってるじゃないか。もちろん実家も母さんも嫌いじゃないけど、それ以上にルルーシュと一緒にいたかったのが帰らなかった理由」

 ぱちくりと瞬きをしたルルーシュは、それからたっぷり数秒かけて頬を淡く染めていた。「な、なんだそんな理由か、馬鹿だな」とぶっきらぼうに言う横顔は可愛いだけである。
 わかってくれたのならまあいいかと、僕は口元を緩めた。

「でも、一人暮らしを始めてまだ一回も帰ってないんだろう? たまにはちゃんと顔を見せてやれ」
「えーっ」
「文句を言うな。その代わり、今度来たときにお前の好きなハンバーグを作ってやるから」
「ハンバーグで毎回釣られるほどお子様じゃないんだけど」
「お子様だろ」

 くすくす笑うルルーシュに僕はわざと膨れてみせたけれど、すぐに笑みを浮かべた。

「わかった、ルルーシュの言うとおりにする。ハンバーグの約束、忘れないでよ」
「はいはい」

 そんな会話を交わしたのが日曜日のことである。
 そして今日は次の土曜日。昨日のバイトを終えた僕は、一人暮らしのアパートではなく実家の方角へと向かい、久しぶりに両親と過ごした。
 母親はやけに張り切っていて、三食すべてに僕の好物を作ってくれた。至れり尽くせりのもてなしは実家にいた頃には考えられないことで、やっぱり寂しかったのかなとちょっと申し訳ない気持ちになった。
 これからはときどき帰ろうと思って駅までの道を歩いていた僕は、懐かしい景色にふと足を止めた。
 目の前には桜の木があった。今の季節は枝を伸ばすばかりで、花はもちろん葉もついていない。道行く人はこれが桜だとわかっているのだろうか。
 あと半年もすれば満開の花を咲かせて人々の目を奪う桜だけど、冬も迫ったこの季節に見上げるのはどこか寂しい。
 それでも、幽霊だったルルーシュはずっとここにいてくれた。花の綺麗な春も、陽射しの暑い夏も、だんだん夕暮れが早くなってきた秋も、雪のちらつく冬も、ここに立って僕のことを見守ってくれていた。
 未練が具現化したような存在だったから立ちっぱなしで疲れるということもなかったのだろうが、改めて考えるとすごいことである。
 (よく飽きなかったよなぁ)
 桜の木を見上げながらしみじみ思った。いつ来るかもわからない相手を毎日毎日待つなんて普通はできない。
 それだけ僕のことが好きだったからかな、と考えて口元がにやけた。ルルーシュが見たら「気持ち悪い」と一蹴されることだろう。
 (早くルルーシュに会いたいな)
 二日前にもルルーシュの家にお邪魔して夕飯をご馳走になったばかりだし、きちんと告白してからはほぼ毎日と言っていいくらいの頻度で会っているのに、会いたくてたまらない。
 ルルーシュが傍にいないと寂しい。
 まるで半身をなくしたような心細さを感じるのは、自分たちの前世がそうさせているのか。
 (いや、前世は関係ない。ルルーシュを好きなのは今の僕なんだから)
 なんでもかんでも前世に結び付けるのは良くないと首を振る。それから、僕は何気なく振り返った。

「あ……」

 眼前には秋の澄んだ青が広がり、そこには七色の虹がかかっていた。
 虹だ、と口の中で呟く。
 色は薄く、今にも消えてしまいそうな虹だったけれど、久しぶりに目にした七色になぜか釘付けになった。

『秋の虹だな』

 そう教えてくれたのは幽霊だったときのルルーシュだ。
 柔らかい声が耳の奥に蘇る。

「秋の虹だよ、ルルーシュ」

 あの頃の彼にそっと囁き、僕は頬を緩めた。

***

「虹の根元を掘ったらお宝がたくさん埋まってるんだって!」

 目をキラキラさせながら興奮して報告する僕に、ルルーシュは怪訝そうな顔で首を傾げた。

「友達が言ってたんだ。虹の生まれたところにはお宝がたくさんあるんだよ。だから俺、お宝を探しに行くんだ」
「お宝って?」
「それは、えーと、綺麗な宝石とか金貨とか銀貨とか」
「なんで金貨や銀貨なんだ」
「大泥棒が隠してるのは金とか銀だって本に書いてたよ」
「お前は何を読んでいるんだ。それはともかく、スザクはそのお宝が欲しいのか?」

 逆に尋ねられて、僕は大きく頷いた。

「だって、大金持ちになったらルルーシュを養ってあげられるだろ?」
「だからどこでそういう言葉を覚えてくるんだか……」

 ルルーシュが呆れていることには気付かず、当時の僕は「ルルーシュを養う」ということに過剰な夢を抱いていた。
 もちろん、その意味を正確に理解していたわけではない。深夜、両親が観ていた不倫ドラマをこっそり覗いて、養うとは好きな人と一緒に暮らすことだと勘違いしていたのだ。
 自分の大いなる勘違いを知って恥ずかしくなるのは中学生になってからだけど、まだ小学五年生だった僕は大真面目に養う方法を考えていた。ルルーシュのことが好きだから、いつでもどこでも一緒にいられたらいいと純粋な気持ちで思っていた。

「お宝を見つけていつかおっきな家を建てるから、俺と一緒に住もうよ。そしたらずっと一緒にいられるよ」

 将来の夢を語る僕に、ルルーシュは笑うことなく優しい表情を浮かべてくれた。

「本当に、お前は変わらないな」

 口にされたのは不思議な言葉で、どういう意味かと今度は僕が首を傾げた。すると、ハッとしたルルーシュが慌てた様子で「なんでもない」と言い、じゃあお宝の上手な活用方法を考えないとな、としゃがみ込んで僕の目線と同じ高さになった。
 あれは深く追求されないようわざと話題を変えたのだろう。でも、まだ子どもだった僕はそんなことには気付かず、お宝を見つけたあとのことを一生懸命ルルーシュに話して聞かせた。ルルーシュはにこにこしながら僕の話に耳を傾けてくれた。
 虹を見たのは翌日のことだ。
 夏の虹ははっきりとした色で架かるが、秋の虹は色が淡くてすぐに消えてしまうことが多いんだ。そう説明したルルーシュは、僕を見下ろして頭を撫でた。

「俺が聞いたのは、虹の生まれた場所を見つけたら願いが叶うとか幸せになれるとか、そういう話だったな」

 どこか懐かしそうに語る大人びた顔を僕は見上げた。

「じゃあ、虹の根元を探したらお金持ちになって願い事も叶うんだな」

 期待に胸を膨らませる僕に、欲張りすぎだとルルーシュは苦笑いしていた。

「――本当に叶ったら良かったのにな」

 ぽつりと呟いた顔はどこか哀しそうで、寂しそうで、淡い色の虹をただ真っ直ぐに見ていた。彼がどこか遠くへ行ってしまいそうな感じがして、僕はルルーシュの手を握り締めた。
 どこにも行かないで。
 僕の傍にいて。
 ずっと一緒にいて。
 そう思ったのは、『いつ』の僕だったのだろう。

***

「虹の生まれた場所を探しに行こうぜ!」

 土蔵に到着するなりそう誘った俺に、ルルーシュは一瞬ぽかんとし、それから盛大な溜め息をついた。干している途中の洗濯物を籠の中に戻して俺のほうに向き直る。

「ナナリーに余計なことを教えたのは君か」
「余計なことじゃないって」
「余計なことだ」

 その話をしたのは俺だった。
 虹の生まれた場所を見つけたら願いが叶う。学校で聞きかじった内容を教えたらナナリーは喜んでくれて、私もいつかそこへ行ってみたいですと話していたのは昨日のことである。
 だからルルーシュを誘って三人で行けたらいいなと思ったのだが、なぜかルルーシュはすっかりご機嫌斜めだ。

「そんなものを探してどうするんだ。仮に虹の生まれた場所が本当にあったとしても、ナナリーは見られないんだぞ」

 彼女の目のことを指摘され、そこでようやくルルーシュの不機嫌さの原因に気付いた俺はうろたえた。
 ナナリーは目が見えない。それは初対面のときからわかっていたのに、すっかり忘れていた自分の迂闊さにどうしようとあせった。
 あんなに楽しそうに笑っていたナナリーだけど、心の中では悲しんでいたかもしれない。俺のことを罵っていたかもしれない。心ない発言をしたことで嫌われたかもしれない。
 最悪の事態を想像しておろおろしていると、ルルーシュがまた溜め息をついた。

「君はいつも考えなしなんだから、たまにはちょっと考えてから行動に移す癖を付けるんだな」
「ごめんなさい……」

 考えなしと言われるのは心外だが、今回はそのとおりなので反論の余地がない。素直に謝った俺に、でも――、とルルーシュが続けた。

「ありがとう」

 早口で言ったルルーシュの横顔はほんの少しはにかんでいた。
 余計なことを教えたと文句を言っていた彼が、それでも感謝の言葉を伝えてくれている。つまり、ナナリーは悲しんでいないし、ルルーシュも本気で怒っていないということだ。
 自分の中で出した結論に勇気を得た俺は、じゃあさ、とルルーシュににじり寄った。

「俺とルルーシュの二人で探しに行こう」
「二人で?」
「うん。ナナリーは虹を見られないけど、俺たちが虹の生まれた場所を見つけて、ナナリーの目が良くなりますようにってお願いして、ついでにこれからも三人で一緒にいられますようにってお願いすればきっと叶うよ」
「叶うよって、そもそも虹の生まれた場所なんてものは――」

 何かを言いかけてルルーシュは口を閉ざし、そして空を仰いだ。俺も釣られるように首を伸ばして上を見た。
 夏の空は高く、遠くの山の向こう側に入道雲が浮かんでいる。風が吹き、洗濯物がゆらゆらと揺れた。今日も夕立は降るだろうか。

「そうだな、いつか本当に探しに行けたらいいな」

 焦がれるような声音に顔を向け、ルルーシュ? と名前を呼んだ。
 こちらを見たルルーシュは小さく笑っただけで、洗濯物を干す作業を再開させた。

「俺も手伝うよ」
「手」
「手?」
「洗ってきたらな」
「ちゃんと綺麗だって!」
「そういう問題じゃない」

 ルルーシュは頑として洗濯物を触らせてくれず、俺はぶうぶう文句を言いながら手を洗いに行った。
 なんとなく後ろを振り返ると、小さな体が背伸びをして一生懸命に洗濯物を干していた。ナナリーのものと思われる女の子の服は特に丁寧に扱っていて、俺は自分の掌を見た。
 ここに来る途中、木の枝や葉っぱを触ってきた手は確かに汚れていて、これじゃあ手を洗って来いと言われるのも仕方ないとようやく納得し、手洗い場に向かって駆け出した。
 ルルーシュがナナリーに綺麗なものだけしか与えず、教えず、世界の悪意から彼女を守り続けていたことを僕は知っていた。
 それがルルーシュだと、僕は子どもの頃からずっと知っていた。――はずだったのに。

***

 過去の出来事を夢で断片的に見るようになったのは自分の前世を思い出してからだ。
 それはいつも取り留めのないもので、どうしてその場面が夢に出てきたのかは僕にはわからない。ただ、目覚めてすぐにルルーシュの声が聞きたくなった。だから僕は迷わず電話をかけた。
 朝早い時間だったけれどルルーシュはもう起きていたようで、ワンコールで出てくれた。

「ちょっと遠出しない?」

 唐突な誘いに、電話の向こうで訝る気配がした。

「遠出ってどこに?」
「虹の生まれた場所を探しに」

 今度は息を呑む気配がした。きっとその顔は驚いた表情を浮かべているのだろう。

「ルルーシュの最寄り駅まで迎えに行くから。二時間後に改札の前で待ってて。それと、山登りできる格好をしてきてね」
「は? 山登り?」
「重装備じゃなくていいよ。ピクニックぐらいで大丈夫。じゃあ、あとでまた」

 一方的に告げると通話を切った。今ごろルルーシュは携帯の向こうで怒っているに違いない。いきなり何を言い出すのだとか、勝手なやつだとか、散々悪態を吐いていることだろう。
 その様子がありありと思い浮かび、僕はくすくす笑った。

「さてと、準備準備」

 パジャマを脱ぎ捨て、暖かい格好をし、急いでトーストを食べてから荷物の準備をする。ルルーシュの家の最寄り駅まではすぐだけど、少し早く到着できるように家を出た。
 すると、約束の十分前だというのに、改札の前にはもうルルーシュがいた。僕が手を振ると、不機嫌そうな顔でこちらに歩いてくる。

「もっとゆっくりで良かったのに」
「お前だって早いじゃないか。というか、遠出とか山登りとか一体なんなんだ。いきなり二時間後に集合と言われても困る」
「何か予定あった?」
「予定はないが、家でやることはいっぱいあった。おかげで慌てて洗濯物を干す羽目になったんだぞ」

 偶然だとわかっているけれど、洗濯物という単語に思わず頬が緩む。なんだその顔はと睨まれたので、なんでもないよと笑みのまま答える。

「でも、ちゃんと来てくれたよね。ルルーシュのことだから、本当に駄目だったら電話をかけ直してくるし、ここにも来なかっただろう?」

 だから良かったと言えば、ルルーシュは眉間に皺を寄せていた。これは怒っているのではなく、図星を指されて何も言えないだけだ。僕が笑みを深めると、照れ隠しのようにふいと視線を逸らされた。

「じゃあ行こっか」
「だから行くってどこに」
「そのうちわかるよ」

 くるりと背を向け、抜けたばかりの改札を再び通る。文句を言っていたルルーシュも大人しくついて来た。
 日曜日の朝の電車は空いていて、僕たちは並んで座席に座った。周囲には大きな荷物を持った人が多く、皆もどこかに旅行へ行くのだろうかと思ったら親近感が湧いた。
 ターミナル駅で電車を降りると、今度は特急に乗り換える。その行き先を見てルルーシュはまた眉を寄せていた。さすがに勘付いたかもしれないが、やはり何も言わずについて来てくれた。
 二人とも無言のまま電車に揺られる。周りでは登山客や観光客がお喋りに興じていて、誰もが楽しそうだった。
 そんな雰囲気の中で、僕たちはむっつり黙り込んでいた。喧嘩をしているわけではないのに、なんとなく口を開くことが憚られた。ルルーシュもあえて声を出さないようにしているのか、流れていく景色をじっと眺めている。
 やがて、車内のアナウンスが目的地を告げた。降りるよ、と立ち上がって声をかければ、ルルーシュは迷子の子どものような顔をしていた。僕は安心させるようににこりと笑い、行こう、とその手を取って引っ張った。
 僕たち以外に降りる客はいなかった。閑散としたホームを進み、改札を抜けて駅前に出る。

「二十分ぐらい歩くけど、面倒だったらタクシーにしようか?」
「いや、歩いて行く」

 どこに行くとは言っていないけれど、やはりルルーシュは目的地にちゃんと気付いたらしい。じゃあ行こっか、と声をかけて歩き出す。
 懐かしいかと聞かれれば、「いいや」と答えるしかない場所だった。三百年も経てば何もかもが変わる。歴史的に重要な建築物でもない限り、三百年前の建物がそのまま残っていることはないだろう。
 だから、ここはかつて歩いたことのある場所かもしれないけれど、今となっては少しも馴染みのない場所である。記憶の奥のほうに残っている景色からは程遠く、懐かしさはちっとも感じない。それでも、ここがかつての故郷だったのだ。
 二十分かけて歩いた先には、どこまでも続く長い階段があった。隣のルルーシュを見ればげんなりとした表情を浮かべていて、僕は思わず笑った。

「どこかで少し休憩する?」
「必要ない」

 若干息を切らせているのに、休憩なんかいらないと口にするルルーシュは負けず嫌いで頑固で意地っ張りだ。
 景色は変わっても、彼のこういうところは変わらないのだと思ったら温かい気持ちが胸に広がった。

「途中でばてたら僕がおんぶしてあげるよ」
「誰が頼むか」

 冷たく言い捨ててルルーシュが階段を上り始める。あとに続いて僕も足を進めた。
 この長い階段をまだ十歳だったルルーシュはナナリーを背負って上った。そう思うと、改めて感嘆してしまう。
 ナナリーを大人に預ければ良かったのに、手を貸してくれとは決して言わなかったそうだ。それはルルーシュの意地であり、周りの者たちに対する不信感の表れでもあった。
 母を亡くした十歳の子どもに頼れる大人はなく、信頼できる人間はひとりもおらず、異国の地でたったひとりの妹をたったひとりで守ろうとしていた。
 そこにどれほどの悲壮感と覚悟があったのか、まだ子どもだった僕は正確に理解していなかったけれど、今ならば痛いほどわかる。
 あの頃からルルーシュは独りで戦っていたのだ。それを知っていたのに、どうして僕はルルーシュの手を離してしまったのだろう。どうして彼の味方であろうとし続けなかったのだろう。
 僕には僕の事情があったから仕方ないとかつてのルルーシュは慰めてくれたけれど、もっと早くルルーシュの手を掴み直していれば、三百年前の結末は変わっていたかもしれない。そしたら、いろんな人を死なせずに済んだかもしれない。
 どうしようもない悔恨は、三百年が経っても忘れられるものではなかった。

「ルルーシュ、大丈夫? あとちょっとだよ」
「ああ……」

 かろうじて声を出したといった感じのルルーシュは、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返していた。その顔はげっそりしていたけれど、「おんぶは必要ないからな」と睨んできたので、はいはいと苦笑いした。
 最後の一段を上がり、遅れて到着したルルーシュの息が整うのをしばらく待つ。ひんやりとした風が頬を撫でた。階段を上ったばかりの体にはむしろ心地よい冷たさだ。

「――驚いた。ほとんど変わっていないんだな」

 ようやく息が落ち着いたのか、ルルーシュが辺りを見渡して目を丸くしていた。そうだよ、と僕は小さく笑った。

「ゼロレクイエムのあと、外聞が悪いからって取り壊されそうになったらしいけど、神楽耶の尽力で神社としての形は残ったみたい」
「そうか、彼女が……」

 ルルーシュが感慨深そうに呟き、改めて周囲を見た。
 目の前に広がるのは枢木神社だった。神主は不在で、参拝客もほとんどいないけれど、荒れていないということは誰かが定期的に手入れをしてくれているのだろう。この場所だけは素直に懐かしいと思えた。

「さすがにルルーシュたちがいた土蔵はなくなってるみたい」
「ここが残っているだけでも奇跡的だ。でも、虹が生まれた場所はここではないと思うぞ?」

 当初の目的を覚えてくれていたようで、ルルーシュが小首を傾げた。

「ここだよ。いや、ここだった」

 過去形で表現した僕にルルーシュが不思議そうな顔をする。

「虹の生まれた場所ってさ、要は青い鳥と同じなんじゃないかな」
「青い鳥?」
「うん。幸せはいつだって傍にあったのに、それには気付かないままずっと遠くにある虹を探しに行って、でもいつまで経ってもたどり着けないから自分は幸せじゃないんだと思って、自分だけが不幸になったつもりでいる。何が幸せかを理解していれば、その幸せを自ら手放す愚かなことはしなかったのに」

 ルルーシュは凪いだ瞳で僕を見ていた。その唇が微かに動き、だけどすぐにまた噤んでしまった。何を言おうか考えあぐねている。そんな様子だ。
 足を進めてルルーシュの前に立った僕は、深く澄んだ紫を覗き込みながら手を伸ばした。ほっそりとした指を握り締めれば、ルルーシュも握り返してくれた。

「一緒に生きよう、ルルーシュ。僕にとっての幸せはルルーシュと一緒に生きることなんだ、だから、一緒に生きよう」

 お願い、と懇願するように伝えた僕の目を見つめ返していたルルーシュが口元を綻ばせた。

「俺はお前の傍にいるって言っただろう。安心しろ、そんな風にお願いされなくても一緒にいてやるから」

 最愛の人の柔らかい表情に、僕は顔をくしゃりとさせた。繋いだ手に力を込める。

「どこにも行かないって約束してくれる?」
「約束する」
「本当に?」
「ああ。もう嘘はつかない」

 手を引いて細い体を掻き抱いた。
 何かあったのかと、腕の中から少し心配そうに尋ねられた。生きているぬくもりを感じながら、何もないよと首を振った。

「約束は守るって、この間も散々言っただろう?」
「うん」
「お前はまだ不安だったのか? ――それとも、俺がまたお前を不安にさせるようなことをしていたか?」
「ううん、ルルーシュのせいじゃない。ただ、確かめたかっただけ」

 どうしてこんなに不安になったのか自分でもよくわからない。
 思い出した記憶がどれも優しくて、でも泣きたいような切なさを孕んでいたからだろうか。
 ルルーシュはどこにも行かないと約束してくれた。僕が必要とする限りは傍にいるとまで言ってくれたのに、その言葉を疑ったわけではないのに、言い知れぬ不安に襲われたのは今にも消えそうな秋の虹を見たせいなのか。
 枢木神社を選んだのは、ここが僕たちの始まりだったからだ。
 二度と足を運ぶつもりのなかった場所だけど、ルルーシュと二人で見に行きたいと思った。そこに虹の生まれた場所があったのだと伝えたかった。
 (僕の幸せはルルーシュ、君だよ)
 だから、今度こそ僕たちの望みを叶えよう。

***

 ルルーシュ降りるよ、と声をかけられてうとうとしていた意識が急浮上した。
 もう最寄り駅に着いたのかと駅名を見れば、初めて目にする文字に一瞬思考を停止させた。

「急いで急いで。ドア閉まっちゃうよ」
「えっ、でもここは――」

 ぐいっと手を引っ張られ、わけがわからないまま足を動かす。ホームに下りると背後で電車のドアが閉まった。
 枢木神社の最寄り駅と違い、ここでは多くの人が降りていて、次々に改札へと向かっていく。何がなんだかわからない俺は、しばらく辺りを観察してから最後にスザクを見た。

「ここはどこだ?」
「ちょっと温泉に寄って行こうかなと思って」
「は? 温泉?」
「この辺り、温泉街なんだよ。知らない?」
「それは知っているが……。温泉に入って帰るのか?」
「うん、一泊してね」
「一泊?」

 思わず声を上げた俺を無視し、早く行こう、とにこやかな顔をしたスザクに手を引かれた。
 温泉とか一泊とかまったく聞いていない。今日の遠出はいきなり決めたと言っていたのに、いつの間に宿を取ったのだ。そもそも、宿代はいくらなのだ。財布の中身はあまり入ってないぞ。
 そんなことを考えていたら、こちらの疑問を読み取ったかのようにスザクがひとりで解説し始めた。

「せっかくここまで来たのに日帰りで帰るのはなんだかもったいないなーと思ってさ。で、ルルーシュが寝ている間に宿を検索したら良い雰囲気のところを見つけちゃって。あ、宿代は心配しなくていいよ。夏休み中はバイト三昧でずっと家にいたって言ったら、たまには友達と遊んできなさいって母さんが軍資金持たせてくれたんだ。家にずっといたのはルルーシュといたかったからなんだけど、そこは別に説明する必要ないし、勝手に勘違いしたのは母さんだから問題ないよね?」
「俺に聞くな」
「それに、母さんの勘違いのおかげでルルーシュと温泉で一泊できるわけだし」

 繋いだ手を掲げられ、俺は慌てて振り払った。スザクが気分を害した様子はなく、残念、とだけ言って笑うと改札を抜けた。そのあとをついて行くと、駅前には送迎用の車がたくさん待っていた。
 あれが僕たちの泊まる宿だよ、とスザクが指した小型バスに乗り込んだ。ほかの宿泊客も数組いて、そのすべてが男女のカップルだったのはなんとなく気まずかった。そんな風に感じてしまうのは自分の中に疚しい気持ちがあるからだろうかと思って、ますます居た堪れないような気分になる。
 駅から五分ほど走ったところで今夜の宿が見えてきた。それぞれに仲居が付き、手続きのためスザクはフロントへ向かった。俺はロビーのソファにもたれ、ぼんやりスザクの後ろ姿を眺めた。
 (朝からスザクに振り回されている気がする)
 行き先のわからない旅というのも面白いけれど、なんでも計画を立てておきたいタイプにとっては少し落ち着かない。その上、久しぶりに枢木神社の階段を上ったのでかなり疲れた。
 (久しぶりと言っても三百年ぶりだが)
 それはもはや久しぶりとは言わないなと小さく笑う。
 何か面白いことでもあった? と手続きを終えたスザクが不思議そうな顔をしていた。

「三百年ぶりは久しぶりと言っていいのかどうかについて考えていた」
「なんのこと?」
「階段を上って疲れたということだ」
「それなら早く部屋に行こう。ご飯食べて温泉に入って今日は早く寝ようよ」

 腕を引かれて立ち上がると、仲居の先導で部屋に向かう。スザクが「良い雰囲気」と言っていたとおり、なかなか趣のある宿だ。
 もっとも、この場合の「良い雰囲気」というのは恋人にとってという意味ではないのかと思って眉を寄せる。俺たちの設定は大丈夫なんだろうなと隣のスザクを見るけれど、上機嫌な彼はこちらの懸念に気付いた様子はない。
 スザクが楽しいならまあいいかと息をつき、やっぱり俺はスザクに甘いと苦笑いした。子ども扱いしているつもりはないのだが、今のスザクは子どもの頃から知っているため、つい自分が年上のような気分になってしまうのだ。
 それをスザクが不満に思っていることは知っているけれど、長年の習性はなかなか抜けない。何より、年上とか年下とか年齢的なことは関係なく、スザクを甘やかしたいという純粋な気持ちがあった。
 三百年前の彼にしてあげたかったことを今の彼にするのはある種の罪滅ぼしであり、こちらの勝手な我儘であり、単なる自己満足である。
 (スザクが知ったらきっと嫌がるだろうな)
 前世のスザクと今のスザクはイコールではない。あの頃のことを今の世界に持ち込むのはルール違反だとわかっている。
 でも、完全に切り離せないことはスザクだって理解しているはずだ。そうでなければ、わざわざ枢木神社まで足を運ぼうとしないだろう。
 三百年前とは違うことを確かめるために、俺たちは三百年前をなぞるのだ。それを無駄とは思わないし、思えなかった。
 あらかじめスザクが頼んでいたのか、部屋に通されるとすぐに食事となった。だって先に温泉に入ったら寝ちゃいそうだし、との言葉にそれもそうだなと頷く。
 疲れているのは事実で、ここに布団が敷かれたらすぐにでも横になって寝入ってしまうだろう。
 食事を終えてしばらく休憩したあと、そろそろ温泉に行こうかと提案した。しかし、スザクはどこか生返事だ。さすがの体力馬鹿も疲れたかと笑っていたら、ルルーシュは先に入ってきなよと送り出された。
 何やら様子のおかしいスザクに首を傾げつつ、それなら行ってくるとひとりで温泉に向かう。体と髪を洗い、広々とした場所でお湯に浸かると、今日一日歩き疲れた体がほぐれるようで気持ち良かった。
 (スザクも一緒に来ればいいのに)
 何をあんなに躊躇っていたのだろう。よほど眠たかったのだろうかと疑問に思いながら、スザクをあまり待たせるのも悪いので早々に上がると部屋に戻った。
 部屋にはすでに布団が敷かれていた。スザクはと見れば、隅っこで修行僧のように正座で座り、外の景色を眺めている。先ほど以上に様子がおかしくてまた首を捻った。

「温泉、入ってこないのか」
「うん」
「今ならあまり人がいないからゆっくりできるぞ」
「うん」
「お前、さっきから変だぞ」

 傍に寄って膝をつけば、スザクがびくりと体を揺らした。その反応にこちらもびくりとしてしまう。
 ごめんと謝ったスザクは、俺のほうを見ると慌てて顔を逸らした。

「や、やっぱりもう一部屋取ろうかな」
「は?」
「うん、そうしよう、そのほうが――」

 立ち上がろうとしたスザクの手を掴んだ。相変わらずこちらのほうは見てくれない。
 夕食のときまでは普段通りだったのに、そのあとからなんだか変だ。気付かないうちにスザクを怒らせてしまったのだろうか。

「何か気に触るようなことをしたか?」
「違うよ、ルルーシュのせいじゃない」
「じゃあなんで……」

 避けるような真似をするのだ。
 そう言いかけたら途端に哀しくなった。スザクに避けられているという事実がショックで、先ほどまでの楽しかった気分がするすると萎んでいく。
 思わず顔を俯ければ、ごめんとあせった声が聞こえた。

「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ」
「泣いてない」
「うん、ごめん」

 泣いてないと言っているだろうと顔を上げれば、スザクは困ったような表情をしていた。

「軽蔑しない?」
「なんの話だ。だいたい、何を軽蔑するって言うんだ」
「だからさ……、ルルーシュとお風呂に入るんだなって想像したら色々たまらなくなったというか」
「はあ? 風呂ぐらい入るだろ」
「そうじゃなくて、いや、そうなんだけど――」

 何やら言いにくそうにもごもごとしたスザクは、正座のまま改めて俺に向き直った。

「好きな人と一緒にお風呂に入るところを想像したら色々まずいことになったの」
「まずいこと?」
「しかも湯上りの状態で傍に来られたらますますたまらなくなるに決まってるじゃないか」
「たまらなくなる?」
「だから、むらむらするって意味」
「むらむら……」

 そこまで打ち明けられて、俺はようやくスザクの言いたいことの意味を悟った。途端に頬の温度が上がったのは湯上りのせいではないだろう。

「な…っ、で、でも、今まで普通にお互いの家で過ごしていたじゃないか」
「それはお泊まりがなかったからだよ。もしどっちかの家に泊まるようなことがあったら、きっと同じようにやばかったと思う。けど大丈夫、何もしないから。いつか抱くとは宣言してたけど、今日はそういうつもりじゃなかったし、ルルーシュだって困るだろうし、だからほかに空いてる部屋を探して、駄目ならロビーで一晩過ごすからルルーシュは安心してここに泊まって」

 言い訳するように捲し立てながら腰を上げたスザクをまた引き留める。今度は覚悟を決めて。

「――お前が部屋を出て行く必要はないだろう」
「そういうわけにはいかないよ。僕だって男だからさ、ルルーシュを前に何もしませんなんていい加減な約束はできない」
「だったら、そんな約束しなければいい」

 掴んだ手首に力を込め、俺は顔を俯けたまま大きく息を吸った。

「今ここでお前が欲しいって言ったら、お前は嫌か?」
「え……?」

 ますます頬が熱い。とても顔を上げられない。でも、スザクに出て行かれるのはもっと嫌だった。

「俺だって、お前のことが好きなんだ。お前のしたいことなら叶えてやりたい」
「それじゃあルルーシュの意志がないじゃないか。いくら僕のことを好きだからって」
「馬鹿にするなよ、スザク」

 伸び上がり、スザクの首の後ろに腕を回す。そのまま引き寄せた彼の唇にキスをした。
 驚きを浮かべた翠の瞳を見つめながら薄く口を開く。スザクの目の奥にある欲の色が強くなり、後頭部に手が当てられた。唇が深く合わさってスザクの舌に触れる。

「ん……っ」

 思わず声を漏らすと、引き剥がすように体を離された。

「ご、ごめん」
「なんでお前が謝るんだ」
「だって……」

 二人で向かい合っているのが恥ずかしくて、俺はまたスザクに抱き付いた。こうしていれば顔を見られないから、普段なら絶対に言えないことも口にできそうな気がした。

「俺を抱きたいんだろう?」
「ル、ルルーシュ」
「お前の言いなりになっているわけじゃない。少しでも嫌だと思っていたら、いくらお前が相手でも許すわけがないだろ。それに、いつもの部屋とは違う特別な場所だから、少しぐらい思い切ってみてもいいんじゃないかって、そう思っただけだ」

 恐る恐るといった感じで背中に腕が回る。あのスザクが緊張しているのかと思い至り、口元で小さく笑う。

「ルルーシュに誘われるなんて夢みたい」
「で、誘われたことに対する答えは?」
「それはもちろん――」

 髪を梳かれ、耳朶から頬へ順に口付けられる。最後に唇までたどり着くと、キスをしながら布団に押し倒された。

「ルルーシュ、良い匂い」

 首筋に顔を埋めたまま喋られるとくすぐったくて、声を漏らして笑った。

「石鹸かシャンプーの匂いだろ?」
「ううん、ルルーシュの匂い。ごめんね、僕、汗臭くて」
「それこそお前の匂いだろ?」

 嫌いじゃないと囁けば、身を起こしたスザクが困ったように眉を寄せていた。

「そういうの、男を煽るだけだからね。僕以外に言っちゃ駄目だよ」
「お前以外の汗なんて嫌に決まってるだろ」
「だからさぁ――、もう、どうなっても知らないよ」

 そう言うなり、喉の辺りを甘く噛まれた。ひくりと体が震え、無意識に甘い声が上がる。それが恥ずかしくて唇を噛めば、伸び上がったスザクにたしなめるようにキスをされた。
 繰り返す口付けが優しくて、ふいに泣き出したい気持ちが込み上げた。
 三百年前に押し殺した気持ちがこうして叶って、三百年前に諦めたキスをこうして交わしているなんて、幸せすぎて夢みたいだ。
 本当に夢なんじゃないかと思ったら急に怖くなって、スザクにしがみ付くように抱き付いた。

「ルルーシュ?」

 不思議そうに名前を呼ばれ、両腕に力を込める。
 温かいと感じた途端、眦から涙が溢れた。

「――好きだ、スザク」

 ずっと好きだった。
 ずっと一緒にいたかった。スザクとナナリーの幸せを傍でずっと見守っていたかった。
 自分の選択を後悔したことはないけれど、二人を置いて逝ってしまったことは心残りだった。
 そんな未練が幽霊としてスザクの前に現れる原因となったのだが、結果としてスザクと想いを通わせられたのだから、未練がましく気持ちを抱えていたのもそう悪くはなかったということかと小さく笑う。

「僕もルルーシュが好きだよ。だから泣かないで」
「泣いてなんかいない」
「そう? 僕のことが好きすぎて泣いてるのかと思っちゃった」

 茶化すスザクに今度は声を立てて笑った。背中に腕が回り、優しくさすられる。

「好きだよ、愛してる」
「――ああ」

 スザクの髪に手を差し入れ、頬を寄せる。好きだ、と心の中でもう一度告げて唇を探した。
 再びキスを繰り返し、あとは言葉を紡ぐことなく互いの体を求めた。
 そこに相手がいることを確かめ、もうどこにも行かないと伝える代わりに互いの熱を分け与える行為は、俺たちが先へ進むために必要なことなのだと素直に思えた。
 三百年前ではない、今の俺たちだからこそ意味のあるものがここにあった。
 遠くから聞こえてくる声によって深い眠りから引き上げられた。何を話しているのだろうと耳を澄ませていると、どうやらスザクが電話をしているようだった。

「――はい、では十二時に。そうですね、朝食は昼食に変更してもらって。はい。ありがとうございます」

 受話器を置く音がした。
 昼食とはどういうことだと回らない頭で思い、時間を確かめようと枕元に手を伸ばす。が、普段ならすぐに見つかるはずの目覚まし時計にいつまで経ってもたどり着かない。
 どこか別の場所に置いたか? と考えているうちにここが自宅でないことを思い出し、それからようやく自分の置かれた状況に思い至った。
 その途端、羞恥が足元から頭のてっぺんまで駆け巡ったような感覚がして、俺は慌てて布団を被り直した。頭がすっぽり隠れたところで襖が開けられた。

「ルルーシュ? 起きた?」

 何気ないスザクの声を耳にするだけでも恥ずかしい。昨夜、あの声が俺の名前を熱っぽく呼び、快楽を押し殺すように呻いたのだと思ったら居た堪れない。
 畳の擦れる音に、スザクが一歩ずつこちらに近付いて来ていることを知る。心臓はばくばく音を立てていた。とにかく狸寝入りに徹しようと、瞼をきつく閉じる。スザクが傍に座り込む気配がした。

「……?」

 しかし、いくら待っても声をかけてこない。寝ていると思って静かにしているのか、それとも狸寝入りがばれて根比べをされているのか。いずれにしろ今さら顔を出すわけにもいかず、俺は布団の中でじっと息を潜めていた。
 どのくらいそうしていただろう。ふいに何かが伸し掛かり、俺は反射的に声を上げた。何事かと咄嗟に掛け布団を捲れば、スザクの顔が近くにあった。

「おはよ」
「おはよう……。重い、どけ」
「いいじゃん、チェックアウトまで時間あるし、もうちょっとこうしていようよ」
「うるさい、いいからどけ」

 唇を尖らせてスザクが布団から離れた。溜め息をついた俺は身を起こそうとして、しかし布団に手を付いたところで呻いた。
 寝ているときには気付かなかったが、全身が筋肉痛のようになっている。その上、腰とあらぬところに鈍痛が走って痛い。

「大丈夫? ごめんね、僕が無理させすぎて」
「ばっ、馬鹿かそれ以上言うな馬鹿!」

 わあわあと喚けば、スザクが苦笑いした。

「あと一時間は大丈夫だから、しばらく横になってなよ」

 壊れ物を扱うような手付きで再び寝かされ、俺は大人しく横になった。頭に手が乗り、髪を優しく梳かれる。

「帰る前にもう一回温泉入ろっか」
「そんな余裕あるのか?」
「頼んでるから大丈夫」
「そうか」

 撫でられる感触が気持ち良く、自然と瞼を下ろしていた。とろとろとした眠気に襲われる。
 時間があるのなら二度寝を決め込んでもいいかと思ったとき、スザクの声が耳に届いた気がした。だけど、すでに夢うつつの状態だった俺は寝惚けた声で「ああ」と返すことしかできなかった。
 そんな返事でも満足したのか、スザクはどこか嬉しそうに「おやすみ」と囁いた。
 穏やかな寝息を立てる唇に優しく触れられたのは夢だったのか現実だったのか。よくわからないから起きたらもう一度キスしてもらおうと思って、俺は意識を手放した。

「どうしよう、すっごく幸せ」

 奇遇だな。俺もだよ、スザク。
 (16.11.13)