哀を拭い、愛を贈る

「なんだこれは……」

 地を這うような低い声に、主の不機嫌さの元凶を持ち込むこととなったジェレミアは天を仰ぎたくなった。
 こうなることはわかっていた。わかっていたが、これをルルーシュ様にお見せしないわけにもいかなかった。しかし、何も朝一番に持ってくる必要はなかったのだ。せめてナナリー様との朝食を済まされたあとに――、いや、それはそれでますますお怒りになっていたかもしれない。いずれにしろ、せっかくの休暇を台無しにしてしまったことに違いはないのだから、やはり私の責任なのだ。ジェレミア・ゴットバルト、一生の不覚です。申し訳ございません、ルルーシュ様。
 と、忠義の家臣が心の中で謝罪していることなど露知らず、ルルーシュは手にしていた新聞を思い切り握り締めた。

「――日本に行く」
「は?」
「リークした人間を締め上げてやる」
「しかし、これはブリタニアのゴシップ紙でして……」
「だからだ。日本ではなくブリタニアの新聞を狙ったところが姑息なんだ。とにかく日本に向かうぞ。極秘だから日本側への事前連絡は必要ない」

 羽織っていた上着を脱ぎ捨てる。それから、ルルーシュは寝衣の紐を外し始めた。

「皇帝陛下と宰相閣下にはどのようにご報告を?」
「それも必要ない」
「さすがにご報告なしというのは……。日本以上に大問題になりますし、それに明日は――」
「お前さえ黙っていれば問題にはならないだろう? 着替えの途中だ、外せ」
「はっ」

 皇族にしては珍しく、ルルーシュは身の回りのことをすべて自分でこなしていた。手伝ってもらうのも皇族の仕事だと割り切り、人の手を借りることもあるけれど、アリエスの離宮の私室では自分のしたいようにしている。
 ジェレミアもそれを承知しているので、ここは手を貸さずに退室してくれた。
 ひとりきりになった空間で、ルルーシュは盛大な溜め息を吐き出した。ベッドの上に放り投げた紙面が目に入り、また溜め息が漏れる。

「よくもこんなふざけた真似を……」

 ブリタニアのゴシップ紙の中でももっとも低俗で、正しいのは日付と天気だけと揶揄される新聞だ。
 記事の内容には取り合わず、くだらない嘘情報を流していると笑い飛ばせばいいのに、今回に限っては一言言ってやらなければ気が済まない。
 幸い、ルルーシュは長い休暇に入っていて、あと一週間は自由の身である。動くなら今だし、相手もまさか日本まで乗り込んでくるとは思っていないだろう。

「首を洗って待っていろ、枢木スザク」

 その視線の先には一枚の写真があった。
 正装を身に纏ったルルーシュと、スーツ姿の枢木スザクが抱き合っている写真が。
 そして、その上には下品な見出しがでかでかと乗っていた。

『ルルーシュ皇子殿下の熱愛発覚! お相手は日本のプリンス、枢木スザク様!』

 忌々しいやつ、とルルーシュは低く吐き捨てた。

***

 ルルーシュが日本との交渉役として特使に任命されたのは一年前のことである。
 もともと帝国宰相である異母兄の手伝いはしていたが、学生ということで公にはまだ顔を出していなかった。
 ルルーシュとしては今すぐにでも公務に専念したかったのだが、あまりに早い活躍は周囲の妬みを買うよとたしなめられ、渋々学生を続けていたのだった。
 しかし、一年ほど前に状況が変わった。きっかけは日本側の交渉役が交替したことだ。
 それまでは桐原という日本の影の実力者がブリタニアとの交渉を一手に担っていた。ところが昨年になって突然、特使交替が伝えられた。
 表向きは桐原公の健康上の理由となっているが、後継者を育てたいという意向もあるのだろう。当の後継者のほうが桐原に引退を勧めたとの噂もあり、新しい特使は随分やり手だと噂された。
 噂の真偽はともかく、日本の特使がだいぶ若返ったことから、ブリタニアもそれに合わせた人間を選んだほうが話が進めやすいのではないかと提言し、ルルーシュの名前を出したのはシュナイゼルだ。
 ルルーシュ自身も知らされていなかった話を勝手にまとめた異母兄は、「そういうことだから」と弟に事後報告してきた。
 当然、何を勝手なことをとルルーシュは怒った。しばらくは学生生活を満喫しろと言ったくせにと文句をぶつけた。
 しかし異母兄は余裕の笑みを浮かべ、弟の息が整ったところでこう切り出した。

「君は役職が欲しかったのだろう?」

 そう指摘されたら返す言葉がなかった。

「日本とはサクラダイトの利権を巡って長年微妙な関係にあった。同盟国として友好的な関係を結べるようになったのはごく最近のことで、小さな火種はまだ残っているのが現状だ。だからこそ、日本との関係を深められたら君は大きな手柄をあげることになる。サクラダイトに関する発言権とブリタニア国内での発言権がイコールであることはもちろんわかっているね?」

 諭すように、試すように言い聞かせられ、ルルーシュは拳を握り締めた。
 重要資源であるサクラダイトは大きな利権だ。そこに関わるということは、ブリタニアの政治の中枢に関わることができるということだ。こんなチャンスをみすみす逃す手はない。
 だが、いきなり大役を任されて、それこそ周囲の恨みを買わないかという心配もあった。
 ルルーシュ自身は何を言われても構わない。ただ、妹のナナリーに類が及ぶようなことは極力控えたいというのも本音だ。
 役職には就きたいと願い出ていたものの、最初は下っ端から始めて徐々にのし上がる予定だったので、突然華々しい表舞台に立たされると困惑してしまう。
 日の当たる場所で己の力を発揮したいという欲求と、なるべく影にいたいという気持ちがせめぎ合うルルーシュを焚き付けたのは、これまた異母兄だった。

「役職が欲しいと望んだのは君だろう? それとも、もっと楽な仕事が良かったとつまらないことを言うつもりかい? 皇族としての責務を果たさない人間に皇族を名乗る資格はないよ」

 異母兄の挑発だとわかっていても、その言葉はルルーシュをかちんとさせた。
 私利私欲しかなく、皇位継承権を巡って争うしか脳のない皇族と一緒にされるのは癪だった。
 皇族という特権階級にあぐらをかき、ノブレス・オブリージュを忘れた人間とは違うのだと自負しているからこそ、ルルーシュは兄の言葉に乗るしかなかった。
 ここで逃げ出し、君もほかの皇族と同じかと見損なわれるのは何よりも許しがたい。
 弟のプライドの高さを知っているシュナイゼルだからこそ、ここまで言われてルルーシュが引き下がるはずはないと読まれているのも腹立たしいが、結局、ルルーシュは話を受けることにした。
 己のプライドのために。妹のナナリーを守るために。
 こうして晴れて役職を得たルルーシュは、早速、日本側の特使と連絡を取った。
 お互いこれが外交デビューになるので非公式に食事でもどうかと誘い、双方が順に相手国を訪れる手筈となった。まずは日本の特使をブリタニアに招待し、その後、ルルーシュが日本を訪れるということで話は順調に進んだ。
 新しい日本の特使は、皇家当主の皇神楽耶である。日本を裏で操ると言われているキョウト六家の一員で、その中でもっとも格の高い家柄の少女。
 まだ十四歳で、一見すると世間知らずのお姫様のようだが、その実、政治手腕に長けていることは最初の面会のときにわかった。
 神楽耶はなぜかルルーシュを気に入ったようで、何かと纏わりついて来るのには苦笑いしたものの、ルルーシュと同じレベルで話ができるのは心地よかった。
 桐原以上に手強い相手ではあるが、建設的な話ができるという点においてはとても好ましい交渉相手だ。
 以来、サクラダイトを巡っての話し合いを重ねてきたが、彼女は多忙の身でもあるので、こまごまとしたやり取りのときには代理を立てることもあった。
 その代理が枢木スザクだ。
 枢木家も名家のひとつで、現日本国首相を輩出した由緒正しい家柄である。しかも彼は神楽耶の従兄で、これまでの会談でも常に神楽耶に付き従っていた。だから信用できるとルルーシュは判断したのだ。
 しかし、あのときの判断は間違いだったと今ならばはっきり言える。
 すべての元凶は枢木スザクなのだから。

***

 冷たい空気が頬を撫で、ルルーシュはコートの前を掻き合わせた。
 衝動的に飛び出してきたから、日本とブリタニアは気候が違うことをすっかり忘れていた。緯度はそこまで変わらないのに寒い。肌に感じる空気は異国のものだ。
 コートは着てきたものの、中はあまり着込んでいないしマフラーもないから首元が冷えた。
 ならばどこかで買ってしまおうと思ったが、手持ちの現金がないことに空港を出てから気付いた。
 財布はあるが、カードしかない。しかも皇族専用のカードだ。
 これさえあればなんでも買えるが、これを使うことでルルーシュの居場所がばれる可能性がある。
 (こんなことならジェレミアを振り切る前に現金を確保しておくんだったな)
 今ごろ忠義者の彼は半泣きでルルーシュを探しているかもしれない。
 枢木スザクとの一件はルルーシュの個人的なものだし、内密に話を付けたかったから、ジェレミアが目を離した隙に逃げ出した。それが一時間前。
 携帯の電源は切っている。
 電源さえ入れれば彼がすぐに見つけてくれるだろうが、たった一時間で根を上げるのはルルーシュのプライドが許さなかった。
 (あいつの居場所もスケジュールも事前に調べた。今なら高校にいるから、まずは理事長室に乗り込んであいつを呼び出し、確保したのちにジェレミアと連絡を取るか)
 コートのポケットに手を突っ込むと、携帯をお守りのように触ってから足を踏み出した。
 平日の昼間だと言うのに行き交う人は多い。年格好からして大学生だろうか。目的の高校はここから徒歩で行ける範囲なので、ほかにも学校があるのかもしれない。
 商店街と呼ばれる通りを進みながらきょろきょろと首を回す。日本の街をひとりで歩くのはこれが初めてで、目にするものはどれも新鮮だった。
 護衛も付けずに街中を歩いていること自体、ルルーシュにとっては珍しいことだ。
 ブリタニアでは絶対に有り得ない状況と、極秘来日で誰にも正体を知られていないという解放感。何より、ブリタニアよりも断然安全という気の緩みによって無意識に浮かれていたのだろう。
 前から歩いてきた人と肩がぶつかってルルーシュはよろけた。

「すみません、大丈夫ですか?」

 変な因縁をつけられてはまずいと、軽く頭を下げて謝罪する。相手は三人組の女性だった。
 そのうちのひとりがハッとした顔をし、隣の女性に耳打ちする。その女性が小さく悲鳴を上げて、さらにその隣の女性に「ねえねえ!」と興奮した口調で何やら伝えていた。
 なんとなく、いや、確実に悪い予感がした。

「あの、えっと、ちょっとお聞きしたいんですが」
「もしかして、ブリタニアのルルーシュ皇子ですか?」
「馬鹿、日本語じゃわからないって」
「でもさっき日本語で――」

 三人が代わる代わるに話すのでルルーシュは若干引き攣った笑みを浮かべた。
 ここは日本語がわからないふりをするか。それよりも、彼女達を無視してさっさと立ち去るのが最善か。とりあえず人違いだと説明しておくか。
 そうこうしているうちに、通りを歩いていた人達もルルーシュに気付き始めた。あちこちで歓声が上がり、こちらに駆け寄ってくる女性もいる。
 収拾がつかなくなりそうな状況に舌打ちするが、囲まれてしまっては身動きが取れない。
 とにかく逃げるしかないと後ずさったとき、いきなり背後から腕を掴まれた。

「こっち!」

 そのままぐいっと引っ張られ、わけがわからないまま駆け出した。
 途端に黄色い悲鳴が追いかけてくる。怖いので後ろは振り返らないでおいた。
 前を走るのは同じぐらいの背丈の男だった。足を踏み出すたびに栗色の髪がふわふわ揺れる。ナナリーの髪みたいだなと、こんな状況なのに妹を思い出した。
 狭い路地の角を何度も曲がって、どこまで走ったのかわからなくなった頃、ようやく男が止まった。
 ここまで逃げれば大丈夫かと安堵の息を吐いたルルーシュは、次の瞬間、息を飲み込んだ。
 男が振り返り、突然ルルーシュを引き寄せたかと思えば、顎を掴んで軽く持ち上げたのだ。

「あっ――」

 見覚えのある顔に目を見開いたのと、彼の顔が近付いてキスをされたのは同時だった。
 その直後、二人の後ろをばたばたと走っていく靴音が聞こえた。

「皇子様は?」
「こっちにはいないみたい」
「じゃああっちを探しましょう」

 先ほどの彼女達がまだルルーシュを探していて、思わずぎゅっと目を瞑った。こちらの視界がなくなったところで相手からは丸見えなのだが、隠れたい一心でつい彼のほうへ身体を寄せる。
 すると彼の手がルルーシュの後頭部を押さえ、口付けが深くなった。

「ぁ……、ンぅ…んッ」

 周囲の音が聞こえない。
 耳に届くのは二人分の吐息と、絡み合う舌の濡れた音と、早鐘を打つ自分の心臓の鼓動だけだった。

「――行ったみたいですね。もう大丈夫ですよ」

 時間にすれば一分にも満たなかったはずだ。
 永遠に続くのではないかと思われたキスが唐突に終わり、指の腹で唇を拭われる。大きく息をついたルルーシュは右手を振り上げた。
 しかしあっさり掴まれ、目の前の男を睨み付ける。

「どういうつもりだ」
「騒ぎになりそうだったのであの場から逃げました」
「キ……、キスをする必要はないだろう!」
「ご無礼は承知の上です。でも、あなたの姿を隠すにはこれが一番だったんです。この辺りはそういう人達がよくいるから、誤魔化すには手っ取り早いかと思って」

 ほら、と視線を向けられた先では一組の男女が抱き合っていた。ここが路上であることなど気にせず、濃厚なラブシーンが繰り広げられている。
 あまりの光景にルルーシュは口をぱくぱくさせ、頬を赤らめた。日本人の美徳は慎みではなかったのかと心の中で喚く。

「こ、こんな場所に連れ込むなんてどうかしている!」
「ですが、追っ手をまくには最適の場所でしょう? それより、おひとりでこんなところにいらっしゃる理由について、詳しくご説明いただけますか? ルルーシュ皇子殿下」

 にこりと微笑んだ相手は柔和な雰囲気だが、その目は笑っていない。
 ぐっと言葉に詰まったルルーシュは、しかしわざわざ日本まで来た目的を思い出して息を吸い込んだ。

「説明しろと言うのならまずはお前から説明しろ! あの記事をリークしたのはお前だろう!」
「あの記事とは?」
「白々しい。転んだ俺をお前が助けたのは偶然だろうが、その偶然をあんなにタイミングよく撮れる人間がお前のほかにいるものか」

 写真の出所は調べるまでもなかった。
 撮られたのは先月、日本での会談のあとだ。
 あのときは事前にまとめていた取り決めの最終確認を行うだけで、日本側は神楽耶の代理として枢木スザクが出席した。
 簡単な内容だったので会談自体は当初の予定よりも早く終わり、帰国の便を早めてもらうかどうかルルーシュが考えていると、せっかくですから庭園の散策でもいかがですかとスザクに提案されたのだ。
 会場は枢木家の別荘で、屋敷を囲むように広大な庭園が広がっていた。日本庭園に興味があり、そのうちゆっくり見てみたいと思っていたルルーシュは、時間もあるしまあいいかとスザクに案内を頼んだ。
 庭園自体は素晴らしく、とても有意義なひとときだったと言える。皇家の所有する庭園も実に見事と聞いているので、いつか神楽耶に頼んで見せてもらえないだろうかとこっそり考えていたら、石畳の苔に足を滑らせてしまった。
 短い悲鳴を上げて反射的に目を瞑ったルルーシュを抱き留めたのはスザクだ。
 まるで抱き合うように身体を引き寄せ、危なっかしい方ですねと彼が笑ったのを覚えている。
 あの場は二人きりだった。それは間違いない。
 しかもサクラダイトに関する極秘の会談だ。警備は万全だし、会場には限られた関係者しか立ち入ることができない。そもそも、会談場所は明かされていないのだから、ゴシップ誌のカメラマンが忍び込める状況ではなかった。
 あの場面を絶妙なタイミングで撮った人間がいるとすれば内部の犯行、つまり日本側の人間でしか有り得ないのだ。
 そして、わざわざ手間をかけてまで写真を撮らせた張本人に、ルルーシュは心当たりがあった。

「僕が指示を出したと殿下はお疑いで?」
「お前以外に誰がいる、枢木スザク」

 彼の名前を口にするのも忌々しい。
 日本の特使である皇神楽耶の代理で、枢木家の嫡子で、ルルーシュと同い年で、初めて顔を合わせたときに「殿下のことをお慕いしております」と馬鹿げたことを言い放った相手で、何をとち狂ったのかブリタニアのゴシップ紙に自分達の熱愛の捏造記事を書かせたのが枢木スザクだ。
 この男は会うたびに好きだの愛してるだの耳が腐るようなことを言ってくる。日本との良好な関係を維持するために今までずっと黙ってきたが、今回の件でさすがのルルーシュも堪忍袋の緒が切れた。
 だから、枢木スザクを黙らせてやろうと単独で日本までやって来たのだが、まさかのイレギュラー発生ですっかり予定が狂ってしまった。

「どうせ会場にカメラマンを張り込ませていたのだろう。あの場面でなくても、それっぽく見えれば充分だったんじゃないか?」
「困りましたね。僕じゃないですといくら主張しても、僕には証明する手立てがない」
「しらばっくれるつもりか」
「だって、そんなことをして僕になんのメリットがあります?」

 スザクがわざとらしく肩を竦めた。

「俺を貶めるには充分だ」
「貶める? たかがゴシップ誌、しかもたったの一紙ですよ? あんな記事で殿下の評判が悪くなるとは思えませんが」
「男同士で熱愛なんてスキャンダルでしかないだろう!」
「ブリタニアは同性婚を認めているじゃないですか」
「そういう問題ではない!」

 あれをきっかけにメディアが色々と騒ぎ立てるかもしれない。あることないことなんでも作り上げるのが彼らの仕事だ。
 ブリタニアでもっとも低俗なゴシップ誌のネタを後追いするとは思えないが、こうして二人きりで会っていることがばれれば状況が変わる恐れもある。
 (そうだ、こいつとここでこうしていること自体がスキャンダルじゃないか!)
 ハッとしたルルーシュは逃げ出そうとした。が、素早く腕を掴まれる。
 今日は何度こいつに掴まれるのかと、思い切り舌打ちをした。

「ブリタニアの皇子ともあろう御方が舌打ちとは、お行儀が悪いですね」
「うるさい。お前が舌打ちされるようなことをするのが悪いんじゃないか。いいから離せ」
「そういうわけにはいきません。殿下をおひとりにして万が一のことがあったら外交上の問題になります。最悪、日本がブリタニアに潰されてしまうかも」
「今回のは極秘来日で俺が勝手に来ただけだ。ブリタニアはそこまで愚かではない。というか、お前はなぜここにいる」

 平日の昼間を狙ってやって来たのだから、当然、今は授業中のはずである。商店街でスザクと出会うはずがないのに、よく考えるとこの状況はおかしい。
 改めてスザクの格好を見れば私服だった。彼の通う高校には制服があるので、私服姿でうろついているのも変だ。

「極秘とおっしゃっても、入国した時点で日本側にはわかります。殿下の情報は逐一、僕に入るようになっているんですよ」
「は?」
「好きな人の動向を知りたいと思うのは当然のことでしょう? それに、何かあったら日本としても困りますからね。そういうわけで、護衛代わりにこっそりあとを付けていました」

 ルルーシュは嫌そうに顔を顰めた。
 日本に入った瞬間からすべてスザクに情報が入り、今までずっと見られていたのかと思うと気分が悪い。

「お前はストーカーか」
「まさか。ブリタニアでの殿下のご様子までは追っていません」
「当たり前だ!」
「さて、とりあえずどこかで休憩でもしましょうか。お腹は減ってませんか?」
「人の話を聞け! 俺はお前に文句を言いに――」

 しいっ、と言うように唇に人差し指を押し当てられた。

「殿下は日本でも有名人ですから、あまり目立つとさっきのような騒ぎになります。どうかここはお静かに」
「お前が変なことをしなければな」

 邪魔な指を振り払うと、スザクはくすくすと楽しそうに笑った。

「文句ならあとでたっぷりお聞きしますから、ひとまずこの場を離れましょう。その前に、顔を隠すための帽子があったほうがいいですね」

 自然な仕草で手を引かれ、ルルーシュはそのままついて行きそうになった。
 すぐに気付いて「枢木スザク! 離せ!」と叫ぶが、振り返った彼は笑うだけで手は離さなかった。

「こうしていたほうがカモフラージュになるでしょう?」
「カモフラージュだと? 男同士で手を繋いでいるほうがよほど目立つ」
「その点はご心配なく」
「何を言っている」
「殿下のご心配は杞憂ですよという意味です。あ、あの店でいいかな」

 少し移動しただけなのに、先ほどとは趣の異なる通りに出た。道の両側に街路樹が一定の間隔で植わっていて、小綺麗な店がいくつも立ち並ぶ。
 そのうちのひとつに入ると、スザクはざっと辺りを見回して奥の棚に近付いた。いくつか帽子を見たあと、つばの付いたニット帽を被せられる。

「このほうが顔が隠れますね」

 うんうんと頷いて何やら納得したスザクは、ルルーシュの頭から一旦帽子を取ると、次いでふわふわの白いマフラーを手にした。

「少々お待ちください」

 にこりと笑ってレジに向かう背中をぼんやり目で追う。今ならば逃げられる、と思って足が動きかけたけれどやめた。
 来日の目的は枢木スザクだ。あいつをぎゃふんと言わせるために日本まで来たのに、こちらから逃げ出してどうする。
 戻って来たスザクは早速ルルーシュに帽子を被せて、首にはマフラーをぐるぐる巻いた。

「マフラーは変装の役に立たないと思うが」
「殿下の首元が寒そうでしたので。お身体も冷えているようですから、まずは温かいものでも飲みましょう?」

 寒さに震えていたことを見抜かれていたのかと思うとなんだか悔しい。ルルーシュがムッとしてみせても、スザクはにこにこ笑うばかりだった。
 では参りましょうか、と再び手を繋がれた。

「マフラーを買うならついでに手袋も買ってくれないか」
「それはほら、こうしていたら寒くないでしょう?」

 繋いだ手をスザクのコートのポケットに入れられた。何をする! と咄嗟に喚けば、ポケットの中で指を絡めて強く握られた。

「だからカモフラージュですって」
「これのどこがカモフラージュだ!」
「まあまあ」

 引き剥がそうにもスザクの力が強くて敵わない。
 しばらく抵抗したあと、ルルーシュは大きな溜め息をついて諦めた。

「帽子とマフラーの代金はあとでジェレミアに請求しろ」
「これは僕からのプレゼントですからお気になさらず」
「お前に借りを作りたくない」
「ならば、先ほどのキスでお代はいただいたということで」

 眉間の皺を深めるけれど、スザクの笑顔は相変わらず変わらない。

「――お前、何が目的だ」
「目的とは?」
「好きだとかキスだとか男相手におかしいだろう。嫌がらせのつもりか?」
「まさか。殿下のことを好きだからこの気持ちを素直にお伝えしているだけです」
「冗談だろう」
「本気です」
「俺と付き合ってなんのメリットがある」
「好きな人と付き合うことにメリットもデメリットもありません。まああえて言うなら、殿下とお付き合いすると二人きりで過ごせる時間が増えるのがメリットでしょうか」

 馬鹿げているとしか思えない発言に、ルルーシュはちらりと隣を見た。

「酔狂なやつだな。いや、狂気の沙汰だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてない」
「ところでお昼は何を召し上がりたいですか?」

 人の話を聞かないスザクにもう一度溜め息をつく。

「せっかく日本に来たから日本の料理を食べたい。会談のときに出てくるような料亭のものではなく、もっと庶民的なものだ」
「庶民的ですか。しかしこの辺りだと……」
「あれでいい」

 思い付きで指したのは『うどん・そば』と書かれた暖簾だった。そういえばうどんというものはまだ食べたことがなかったなと思う。

「よろしいのですか?」
「ああ。食にはその国の文化が表れるからな」
「まああそこならさっきみたいな子達はいないだろうし……」

 二人で暖簾をくぐる。中は狭く、昼時を過ぎているせいか客は少なかった。
 テーブルと椅子は年季が入っていて、座るときしきし音を立てた。スザクにメニューを渡されて日本語の羅列に目を通す。

「よくわからないな……」
「そうでしょうね。気になるものがありましたらご説明しますが」
「いや、いい」

 スザクの助けを借りるのはなんとなく癪だ。彼が可笑しそうに笑っているのは無視してメニューと睨めっこする。
 きつねとかたぬきとか、まさか動物の肉がそのまま入っているわけではあるまい。天ぷらはあの天ぷらか? と頭の中でいろんな疑問を浮かべながら順に検討していった。
 やはりよくわからない。
 (カレーうどんがカレーとうどんの組み合わせであるのは間違いなさそうだな。不思議な組み合わせだが、中身がわかっているという点においては一番無難か)
 これにすると言ってメニューを指せば、スザクが二人分の注文をした。
 しばらくして出てきたカレーうどんは想像通りで、しかし最初のひと口を食べるのに勇気が必要だった。ブリタニアにはこんな料理がないのだから当然だ。

「早く食べないと伸びますよ。それとも猫舌ですか?」

 スザクは早速天ぷらうどんを食べている。
 天ぷらがまさか海老の天ぷらとは思わず、だったらそれを注文すれば良かったと後悔が浮かぶけれど、彼のものを欲しがっているような発言はやめておこうと己に言い聞かせた。

「ああそうだ、カレーうどんのカレーが跳ねるかもしれないから気を付けてくださいね」
「そういうことは早く言え!」
「注文されたのは殿下でしょう?」

 そんな危険な食べ物だと知っていれば頼まなかった。
 だが、最初にスザクの助言を断ったのはルルーシュなので、余計なことは言わないでおこうと今度も口を噤む。

「箸が使いにくければフォークを持ってきてもらいましょうか?」
「必要ない」

 日本との交渉役を任されるに当たり、日本文化はそれなりに身に付けた。初めは悪戦苦闘した箸も今では普通に使えるので問題ない。
 恐る恐るうどんを掬ったルルーシュは、箸から麺が落ちないうちに口へと運んだ。カレーが服に飛ばないよう気を付けて啜り、咀嚼して飲み込む。

「いかがですか?」
「……悪くない」
「それは良かった」

 どこか嬉しそうなスザクを一瞥し、ルルーシュは食べることに専念した。
 生まれて初めて食べたカレーうどんは美味しかった。庶民的な店にこれほど美味しいものがあったのかと感動すらしている。
 だけど、それをスザクに伝えるのは悔しくて黙々と食べ続けた。
 (これなら自分でも作れそうだが、カレーが日本の一般的なカレーとは少し違う気もするな。うどん用に作っているのか? そこは調べればわかるか。ブリタニアに戻ったら作り方を研究して、必要な材料を取り寄せれば――)
 ルルーシュが頭の中でカレーうどんの作り方をあれこれ検討している間にスザクは食べ終わっていた。
 しまったと焦っていると、ゆっくりでいいですよとスザクが言う。まるでこちらの考えを読んでいるみたいだ。

「それにしても、殿下をお連れするならもっとオシャレな店と思っていたのですが、まさか初デートがうどん屋になるなんて」

 デートという単語にルルーシュはむせた。大丈夫ですか? と心配そうに尋ねてくるのが白々しい。

「デートではない」
「デートでしょう」
「違う」

 戯言を聞いている暇はないと、残りのカレーうどんを食べることにする。その間、ずっとスザクの視線を感じていたけれど無視した。
 食事を終えると少し休憩してから店を出た。うどんが温かかったおかげか、身体も随分温まっている。

「さて、次はどこへ行きますか?」
「どことは?」
「だってデートですから」
「だからデートではない」
「それなら僕が勝手に選んだデートスポットにお連れするということでよろしいですか?」
「勝手に決めるな」
「せっかく近くまでいらしたのだからうちの高校でも見ますか? でも、日本の高校なんて珍しくもなんともないですよね。じゃあほかに――」
「行ってやる」

 スザクの言葉を遮ってぶっきらぼうに伝えた。
 彼が首を傾げると、栗色の癖っ毛がふわふわ揺れた。なんだか犬みたいだ。

「日本の高校はまだ視察したことがないからな。それと、特に行きたいところはないし、お前の言うデートスポットとやらにも興味はないが、日本の町並みはこの目で見ておきたい。綺麗な通りも、汚い通りも。できれば歩いて」

 その言葉に嘘偽りはなかった。
 日本との交渉を担当するのだから日本のことをもっと詳しく知りたいと常々思ってきた。
 しかし、皇族のルルーシュを連れて行くとなると日本側もブリタニア側も気を遣う。結果、見せられるのは綺麗に整備された場所ばかりで、それはそれで日本の一面なのだろうが、ルルーシュの希望を満たすものではなかった。
 だから、スザクがどこにでも連れて行ってくれると言うのならば好機だ。
 (さて、枢木スザクはどう出るかな)
 汚い部分を見せるということは、日本の恥を晒すことでもある。特使の代理である彼がそんな不名誉な場所を自ら案内するだろうか。

「かしこまりました」

 しかし、なんの迷いもなくスザクはイエスと答えた。

「ただ、今は昼間ですし、夜遅くまで殿下を連れ回すわけにはいきませんから、この時間にお見せできる範囲で、という条件付きになります」
「問題ない」

 スザクを真っ直ぐ見つめて返事をする。彼は柔らかな表情をしていた。
 手を握られ、一緒に歩き出す。離せと喚くのも疲れるのでルルーシュは黙ってついて行った。
 大きな通りから路地裏に入れば、先ほど駆けて来た場所に出た。あのときは走っていたので気付かなかったが、軒を連ねるのはいずれもいかがわしい雰囲気の店ばかりだ。

「ここはいわゆる歓楽街です。昼は閑静ですが、夜になるといろんな人間が行き交っています。この辺りは一般人でも利用できますが、もっと奥は少々身の危険を感じるような場所です。殿下のような方が歩いていたらすぐに身ぐるみ剥がされるでしょうね」
「詳しいんだな。利用したことがあるのか」
「いいえ。ただ、ちょっと社会勉強をしただけです。れっきとした仕事ですよ」
「どうだか」

 冷たく言い放てば可笑しそうに肩を揺らされた。こいつ俺で遊んでいるな、と胡乱な瞳を向ける。

「裏社会と呼ばれる世界はどこの国にも存在します。一般市民の安全を考えるならすべて叩き潰すべきというのが正しい判断なのでしょうが、殿下はどうお考えですか?」
「一概には言えないな。必要悪は存在する。こちら側の世界が普通の人々をおびやかすようならば潰さなければいけないが、ただ追い払うだけではいたちごっこで何も解決しないだろう。根絶するのならば徹底的にやらないと意味がない。だが、善と悪は表裏一体だ。そのバランスを崩せばすべてが壊れてしまう。どこまで規制するか、匙加減が難しい問題だな」
「殿下もブリタニアでこういう問題に関わられているのですか?」
「俺に与えられているのはサクラダイトのことだけだ。それでも充分な権力ではあるが、国内のことは兄上が一手に引き受けているから俺が口を挟む余地はない」
「それをもどかしく感じられますか?」
「俺はもともと日の当たらない場所にいる人間だ。こうして日本との交渉を任されているだけでも僥倖なんだから、もっと寄越せと望むのは過ぎた願いだ」
「殿下の才能を生かせないとは、ブリタニアもたいした国ではありませんね」

 思わずぴたりと足を止める。今のは馬鹿にされたのか、褒め言葉と受け取っていいのか。

「それはブリタニアに対する批判か」
「そう捉えていただいても構いませんよ」
「強気だな」
「日本はサクラダイトの一大産地ですからね。うちが供給をストップすれば世界中が困ります」
「そんなことをしたら攻め込まれるかもしれないぞ」
「だからこそ、ブリタニアと同盟を結んでいるのです」
「ブリタニアが裏切るかもしれないのに?」
「殿下が特使である限り、それはないと信じています」

 どうして信じていると簡単に言えるのか。昨日今日会ったばかりの人間を、たとえ口だけだったとしても信じていると言えるのか。
 だいたい、なぜスザクは好きだと言い出したのか。それも戦略のうちか。ハニートラップでこちらを惑わそうとしているのか。
 (男同士でそれは無謀だな)
 そっと息を吐き出す。歓楽街の真ん中で何を議論しているのだと可笑しくなってきた。

「ここはもう充分だ。次はお前の高校を見せてくれ。それから、ナナリーとユフィに何か土産を買いたい。女の子が好みそうな店があれば案内してほしい」
「イエス、ユアハイネス」

 恭しく頭を下げられ、お前はブリタニア人ではないだろうと吹き出す。

「いい加減、敬語も敬称もやめろ。疲れる」
「わかりました。では、ルルーシュと呼んでも?」
「――構わない」

 スザクからルルーシュと呼び捨てにされた瞬間、不思議と胸が高鳴った。皇子や特使という立場ではなく、素の自分に触れられたような感じがしたからだろうか。

「じゃあ次は僕の高校だね。行こう、ルルーシュ」

 手を引かれ、そういえばずっと繋いだままだったのだと思い出した。追いかけられて逃げたときも、街を歩いていたときも、歓楽街を見て回ったときも、互いの国の話をしていたときも、最初からずっと。
 それを嫌だと感じていない自分にルルーシュは戸惑った。
 (単なる慣れだ)
 男同士で手を繋ぐなんて馬鹿馬鹿しい、と誰かに言い訳するように思った。
 スザクの高校はまだ授業中で、ところで授業はいいのかと尋ねた。ルルーシュを迎えに行くほうが僕にとっては重要だからとの回答に、まあブリタニアの特使だしなと納得した。
 スザクがルルーシュを優先するのは、ブリタニアの皇子でサクラダイトに関する交渉の特使であるからだ。なんの役職もない、ただの一般市民だったらわざわざ動向を探ったり、ひとりで困っているところを助けたりしない。
 皇子でなければスザクに出会えず、スザクに特別扱いされることもなかった。そう思って複雑な気持ちになり、なぜそんなことで複雑になるのだと己に突っ込んだ。
 そもそも、日本に来たのはスザクに文句を言うためなのに、これではただの観光である。
 高校を案内してもらったあと、ルルーシュの要望通り可愛らしい小物がある店に連れられ、妹達に似合うものをたくさん買い込んで満足し、少し疲れたからと街中のカフェで一休みしている最中にルルーシュはハッとした。
 デートではないとあんなに言い張っていたにも関わらず、状況だけを見るとまさにデートだ。
 俺は一体何をしているのだと頭を抱えたくなったルルーシュに気付いているのかいないのか、スザクはオレンジジュースを飲みながら「今夜はどうする?」と聞いてきた。

「どうするとは?」
「泊まる? それとも帰る?」
「休暇はまだ残っているからしばらく泊まるつもりではあったが……あっ」
「何?」
「ジェレミアに連絡を入れていない」
「それなら大丈夫。ルルーシュを見つけた時点で僕から連絡しているから」
「……それはどうも」
「どういたしまして。でも、明日の早い時間には帰国したほうがいいと思うよ。じゃないとジェレミアさんが泣いちゃうから」
「なぜジェレミアが泣くんだ」
「というわけで、これから今夜の宿に君を連れて行くけどいい?」

 質問を無視したスザクにムッとするが、宿と言われて首を傾げた。

「まさかその辺のビジネスホテルに泊まらせるわけにはいかないから、僕のほうで勝手に押さえてる。それとも、僕の選んだ宿ではご不満ですか? ルルーシュ殿下」

 顔を覗き込むようにして問われ、ルルーシュは唇を尖らせた。

「その呼び方はやめろと言っただろ。それから、――日本側に迷惑をかけていることはちゃんとわかっている。お前の都合のいいようにしてくれて構わない」

 ふいと顔を逸らして言えば、別に迷惑じゃないのに、とどこか楽しそうな口調で返ってきた。
 お茶を飲み終えると、スザクが呼び出した車で本日の宿泊先まで向かう。ブリタニア皇族を泊めるために選ばれたのは、一流ホテの最上階の部屋だった。
 極秘来日のつもりだったけれど、結局はこうして人に迷惑をかけているのかと思い、自分の行動が軽率だったことをルルーシュは今さらながらに反省した。

「夕食はルームサービスを頼むから。食べたいものはある?」
「お前に任せる」
「わかった。じゃあちょっと相談してくるから、ルルーシュは休んでて」

 スザクが部屋を出て行くと、広い部屋にはルルーシュだけが残された。
 ひとりになった途端、疲労感に襲われた。ブリタニアから日本まで移動し、そのまま一日中歩き回ったので身体は疲れ果てていた。
 夕食の時間まで休もうとソファに横になる。
 (見知らぬ場所で眠るのは好きではないが、スザクが近くにいてくれるのなら)
 そう思いながら、ルルーシュの意識はいつしか落ちていった。

***

「日本の特使は私だということをお忘れですか?」

 部屋を出るなり耳慣れた声が飛んできて、スザクは「あーあ」と零した。

「なんでここがわかったの」
「このホテルは皇コンツェルンのものですよ。ばれるに決まっているでしょう。というか、ばれるとわかっていてここを選んだんじゃないのですか?」

 廊下のど真ん中で腕を組んで立っているのはスザクの従妹であり、ルルーシュとの交渉を任されている日本の特使でもある神楽耶だった。
 彼女から少し離れたところに神楽耶付きの人間が数名いる。さらに廊下の向こうを見ると、密かにルルーシュを護衛する者達が立っていた。
 ルルーシュは気付いていたかどうかわからないけれど、彼の来日が判明した時点で護衛を頼んだ。ブリタニアの皇子の身に何かあったら一大事という日本政府の都合と、彼の安全は最優先したいというスザク自身の希望からである。
 その後、スザクが直接接触することで護衛は不要となったわけだが、ホテルは広くてさすがに目が届かないため、ホテル側のガードマン以外にも見張りを任せていた。
 警備についてはひとまず安心だなと判断したあと、さて、我が従妹のご機嫌はと改めて神楽耶を見る。
 ルルーシュの前では常ににこにこしている顔が、今はさながら般若だ。部屋から出て来いという連絡が携帯に入った時点で怒っているだろうなとは予想していたけれど、これはかなり機嫌が悪そうである。

「だって、皇の息がかかったホテルなら日本で一番安全だろう?」
「当たり前です。いつルルーシュ様をお迎えしてもいいよう、警備面はもちろん、すべてにおいて万全の態勢を敷いています」
「だと思ったから、ここにルルーシュを連れてきたんだよ」

 さらりと褒めれば、神楽耶の眉間に皺が寄った。

「でしたら、ルルーシュ様の来日が発覚した時点で私に連絡を入れるべきでしょう」
「恋敵にわざわざ塩を送るような真似をすると思う?」

 にっこり笑えば、従妹の不機嫌さがさらに増した。

「やはりあなたを私の代理にしたのは間違いでしたわね」
「僕は感謝しているよ」
「黙りなさい。代理の件だけは本当に失敗しました。まさかスザクがここまで節操なしだったとは。ブリタニアの新聞にあんな記事を載せるなんて趣味が悪いとしか言いようがありません」
「欲しいもののためには手段を選ばないだけだよ」
「まったく、本当にタチが悪い」

 ぶつぶつと文句を言う神楽耶に、そういえば、とスザクはのん気な声を出した。

「明日は君もブリタニアに行くんだろう? 今日は早く休んだほうがいいんじゃないの?」
「言われなくてもわかってます」
「間違ってもルルーシュにくっ付いて行こうなんて考えたら駄目だよ。これは内密にとナナリー皇女殿下に頼まれているんだから」
「だから言われなくてもわかってます! そう言うスザクも、ルルーシュ様に同行しようなんて馬鹿なことを考えないでくださいよ」

 刺々しく忠告した神楽耶はくるりと背を向けた。
 ルルーシュに会って行かないの? と声をかければ、振り返った彼女に睨まれた。

「私はスザクと違って節操のある人間ですから」

 ふんと胸を張ったあと、神楽耶は視線を強くした。

「ルルーシュ様はあなたの同情でどうにかなるような御方ではありませんよ」
「同情なんかしていないよ。それに、ルルーシュは強い。君だって知っているだろう?」

 しばらくスザクをじっと見ていた神楽耶は、ルルーシュ様に手を出したらただじゃおきませんからね! と啖呵を切って去って行った。
 その後ろ姿に、実はもう手を出した、とスザクは心の中で答えた。キスしましたなんて言ったら半殺しにされるかなと苦笑いする。
 一行を見送って部屋に戻ると、ルルーシュの姿が見えなくて一瞬ひやりとした。しかし、すぐにソファの上で丸まっている姿を発見し、スザクは無意識に安堵の息を漏らした。

「本当に危なっかしい人ですね」

 自分がブリタニア皇族であることをちゃんとわかっているのだろうかとたまに不安になる。
 ルルーシュを起こさないよう静かに移動し、ソファの前に膝をついた。
 歩き回って疲れたのだろう。わずかな時間ですっかり寝入ってしまっている。
 すうすうと穏やかな吐息を漏らす寝顔は幼く、可愛いな、とスザクは白い頬に手を伸ばした。指の背で撫でると、ルルーシュが微かに呻いた。

「ははうえ……」

 閉ざされたまなじりから、すうっと涙が落ちる。
 その光景に息を止めたスザクは、透明な雫をそっと拭って表情を曇らせた。

「君はまだひとりで頑張っているんだね、ルルーシュ」

 ルルーシュと出会ったのは十歳のときだ。
 もっとも、スザクが一方的に彼を見ていただけだから、正確には出会いとは言えない。向こうはスザクの顔も名前も知らなかっただろう。
 彼はスザクと同じ十歳の子供だった。
 しかし、異母兄について回って必死に外交を学ぼうとする姿勢は同じ子供とは思えなかった。
 それを十歳のスザクは凄いと素直に感心するのではなく、大人みたいなことをする小生意気なやつだと否定的な感情を抱いた。
 所詮は子供だったのだ。大人びた相手とまだまだ子供の自分を比べて、身勝手な反発心を抱いたにすぎない。
 どうしてルルーシュが必死に大人であろうとしたのか、その理由も原因も考えることなく、ブリタニアの皇子様が偉そうにと思っていた。
 日本滞在中の彼らが枢木家に泊まっていたのも、スザクが面白くなかった理由のひとつだ。自分の居場所を乗っ取られたようで嫌だったし、見知らぬ外国人が家の中をうろついているのも嫌だった。
 ブリタニアの皇子なんかさっさと帰ればいいと毎日のように願った。
 そんなある日、騒動は起きた。
 離れから何かが聞こえ、スザクは眠い目を擦りながら起き上がった。大人達がばたばたと走り回り、深夜だと言うのにどこか騒々しい。
 離れには客室がある。ブリタニアの皇子に何かあったのかもしれないと思い、布団を飛び出して離れまで向かったけれど、坊っちゃんはお部屋でお休みくださいと追い返されてしまった。
 不貞腐れていると、悲鳴が聞こえてきてハッとした。起こされたのはこの声だ。誰かが泣き叫んでいる。
 スザク坊っちゃんはお戻りくださいと再び背中を押されたスザクは、部屋には戻らずこっそり庭に下りた。そこから離れの様子が見えることを知っていたからだ。
 警備の目を盗んで庭を横切り、生垣の間から離れを窺う。そこで目撃した光景にスザクは声を失った。
 あの生意気な小さな皇子様が泣いていた。冬でもないのに身体をがたがたと震わせていた。状況が飲み込めないスザクにも、これはただ事ではないということがわかった。
 小さな彼を抱き締めて「大丈夫、怖いものはもういないよ」と背中をさするのはシュナイゼルという彼の異母兄だった。
 だけど、彼は周りの様子も異母兄の声もわかっていないようで、泣きながら「母上」と繰り返していた。
 見てはいけないものを目撃してしまった気がして、スザクはふらふらとその場を離れた。
 ショックだった。何がショックなのか自分でもよくわからなかったけれど、大きな衝撃を受けた。
 翌朝、いつもと変わらぬ様子で異母兄について行く彼を見て、スザクの衝撃は深まった。
 あんなに泣いていたのに、どうして笑っているのか。あんなに悲しい泣き声を上げていたのに、どうして平気な顔をしていられるのか。
 我慢できずにスザクは父に尋ねた。
 余計なことを聞くなとはね付けられるかもしれないと思ったけれど、意外にも父は息子の質問に答えてくれた。
 彼の母親は数ヶ月前に亡くなったそうだ。しかも、彼の目の前で殺された。
 息子を庇った母が死んでいく様を、彼は腕の中でずっと見ていた。
 深く傷付いた彼はしばらく口も聞けず、何も食べられず、一日中ベッドで天井を眺めながら過ごしていたそうだ。
 しかし、何がきっかけだったのかわからないが、彼は自分自身の力で立ち直った。今回の来日は彼の希望で、異母兄に付いて少しでも政治を学ぼうと努力しているらしい。

「ルルーシュ殿下には妹君がいらっしゃるから、そのために自らを奮い立たせて無理をしているのかもしれないな。だが、知らない場所で眠ると昨日のようなことがたまにあるらしい」

 彼の境遇にスザクは再びショックを受け、生意気だと一方的に嫌っていた己を恥じた。
 それからすぐにルルーシュは帰国してしまい、結局スザクは一度も言葉を交わさないまま彼と別れることになった。
 だけど、幼い心の中にはあの日のルルーシュがいつまでも残り続けた。
 ひょろひょろとしていて、喧嘩も弱そうで、ひとりでは何もできないような皇子様のことがずっと気にかかっていた。それが庇護欲と呼ばれるものであることに気付いたのは成長してからだ。
 その後、神楽耶の代理としてブリタニアに渡ったスザクは、ルルーシュと再会した瞬間に自分の感情を理解した。
 僕はこの皇子様がずっと好きだったのだ、と。
 そこからの行動は早かった。
 ずば抜けて頭が良く、政治手腕も抜群の彼は、しかし一方で異母兄姉達によって大事に大事に育てられてきたらしいとわかり、遠回しに気持ちを伝えても理解してもらえないだろうと悟った。
 だから、強引とも呼べる手段に出たのだ。
 最初から好きだと伝え、彼に枢木スザクを意識させる。ただの一方通行で終わるかもしれないが、彼のほうからなんらかの感情を返してもらえる可能性もある。
 すべては賭けだった。
 転んだところを助けた写真を使い、ブリタニアのゴシップ紙にリークしたのはさすがに激怒されるかと懸念したけれど、思い切った手を使って正解だったらしい。
 これが友人としての好意で終わるか、それ以上の好意になるかはまだ未知数だが、少なくとも嫌われてはいない。その確証を得られただけでも成功だ。
 (卑怯と言われるだろうけど、君を守る役目はほかの誰にも渡したくないんだ)
 黒髪を耳にかけ、柔らかい頬に唇を押し当てる。

「好きだよ、ルルーシュ。ずっと君が欲しかった」

 ソファに投げ出された手を握り締めれば、応えるように握り返された。
 その仕草に愛しさが募り、スザクは口元を緩めた。

***

 夕食も忘れて眠りこけていたらしい。
 次にルルーシュが目覚めると陽が昇っていた。
 枕元の時計は午前五時で早朝と呼べる時間だが、九時間ぐらいは寝ていたことになるので充分すぎる睡眠だ。
 それに、夢を見ずに眠れた。旅先でこんなにぐっすり眠れたのは初めてかもしれない。
 (ん? 枕……?)
 自分がいる場所を確かめる。
 ちょっとだけと横になったのはソファのはずだった。それがいつの間にか寝室に移動している。しかも着ているのはパジャマだ。
 まさかスザクが、と慌てて寝室を出た。
 リビングには誰もいない。隣の寝室が使われた形跡もない。念のため浴室やクローゼットも覗いてみたが、ルルーシュ以外は誰もいなかった。
 ここに彼がいたのは夢ではないかと思えるほどスザクの痕跡がなかった。

「なんだ、帰ったのか……」

 自分の声がひどく悲しげで、ルルーシュは慌てて首を振った。
 鬱陶しく付きまとって自分勝手に振る舞う人間がようやく消えてくれたのだから清々する。

「そういえば、あのリークの件…!」

 捏造記事を書かせた張本人を懲らしめるためにはるばるやって来たというのに、結局、あの件についてちゃんと話せていない。一応文句は伝えたが、果たしてあれで伝わったのか。
 くそっ、と悪態をついたルルーシュは、ふと視界に赤が過ぎったのに気付いた。
 先ほどはスザクを探すことに気を取られていたが、テーブルの上には薔薇の花束がある。真っ赤な薔薇だ。
 そこにはメッセージカードが添えられていて、なんだ? と手に取った。

『お誕生日おめでとうございます』

 ハッとした。携帯で日付を確かめ、今日が自分の誕生日であることに気付いた。

「あ……、もしかして……」

 昨日、スザクが「明日の早い時間には帰国したほうがいい」と言っていたのはこれかと思い至った。
 誕生日に盛大なパーティーを開くのはやめてくれと頼んでいるので、親しい人たちが集って身内だけの誕生日パーティーを開いてくれるのが最近の恒例だ。
 しかし、今回はスザクのことで頭がいっぱいだったため、誕生日を気にかける余裕がなかった。今ごろ、ブリタニアでは誕生日の主役がいないと大騒ぎになっているかもしれない。
 急いでジェレミアに連絡を入れると、今にも泣きそうな声で電話に出られた。恐らく、ルルーシュの兄妹達からひっきりなしに問い合わせがあったのだろう。
 悪かったと謝り、一時間後には発つからとジェレミアをなだめて通話を切る。
 (時差があるからなんとか間に合うな。それにしても、ナナリーとユフィからメールも電話もなかったのは珍しい)
 兄を心配しつつも、自由にさせてくれたのだろう。
 勝手な我儘に付き合ってくれたみんなに改めて感謝し、メッセージカードの続きに目を落とした。

「本当に忌々しいやつ」

 言葉とは裏腹に、ルルーシュの表情は優しかった。
 このカードに嬉しさを抱いている。そのことに気付いてしまった。
 ずっと昔、初めて来た日本で、子供だった彼を一度だけ見かけたことがある。
 明らかにこちらを嫌っている目をしていて、なんだこいつと不愉快に思ったものだ。でも、その目の強さは羨ましくも感じた。
 そして一年前、正式にスザクと顔を合わせたとき、だいぶ印象が変わっていたから戸惑った。本当にあの子供と同一人物なのかと疑ったほどである。
 思えば、最初に意識したきっかけはそれだった。
 きっと最初から彼の術中にはまっていたのだ。ならば、抵抗して逃げるだけ無駄だろう。

『あなたを愛しています』

 認めたくはないが、多分俺も同じだ。
 だけど、素直に伝えるのは悔しいからしばらく黙っておこう。
 (返事は次に会ったときに考えてやるか)
 あの男の驚いた顔を拝むのも悪くない。
 口元を綻ばせたルルーシュは、瑞々しい赤い花びらにそっと触れた。
 次がまさか半日以内に訪れ、スザクから直接「愛してる」の言葉を贈られることになるとは、このときは夢にも思っていないルルーシュだった。
 (17.12.05)